解放令反対一揆
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解放令反対一揆(かいほうれいはんたいいっき)は、日本の明治時代はじめに各地でおきた暴動、襲撃事件で、被差別部落民を差別してきた民衆が解放令に反対して起こした。当時の俗称では穢多狩りと言われた。集団リンチ暴行事件の一種といえる。
概説
江戸時代に様々に差別されてきた穢多・非人などの身分及び呼称(とそれに伴う死牛馬取得権など)が1871年(明治4年)8月28日の太政官布告(解放令)で一挙に廃止されることになった。しかし従来彼らを差別してきた他の民衆の中にはこれに反発するものがあり、一揆をなして被差別部落民を襲撃する事件を起こした。これが解放令反対一揆である。1871年から1873年(明治6年)まで散発的に起きた。これを上杉聡や中村拡三らは賤民差別から部落問題の発生の移行期とみる[1][2]。
1871年(明治4年)に広島県で2名死亡、高知県で部落70戸中67戸破壊、1872年(明治5年)に岡山県で4名死亡、1873年(明治6年)に岡山県で18名死亡、福岡県で大量放火により64000人処罰、香川県で部落へ通じる橋3つの破壊、などの記録が残されている。
なお、鎮圧にあたって有力庄屋層が、解放令が「五万日の日延べ」となったと号令を出し、当時、法教育を受けていない農民を納得させ、結果的に、解放令の発効を認めなかった地方もあった。(因みに、2008年7月に解放令公布から50000日を経過する。)
脚註
関連項目
『明治維新と賤民廃止令』解放出版社 1990年