紀元前483年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テンプレート:Yearbox 紀元前483年は、ローマ暦の年である。当時は、「ウィブラヌスとポティトゥスが共和政ローマ執政官に就任した最初の年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元271年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前483年と表記されるのが一般的となった。
できごと
ペルシア
- アケメネス朝ペルシアの王クセルクセス1世は、従兄弟で義兄弟のマルドニオスから、ギリシアからの亡命部隊の支援を得て、紀元前490年のマラトンの戦いの復讐を行うようそそのかされた。それに従って、クセルクセス1世はギリシアへの遠征の準備を進めた。紀元前492年に多くの兵を失った事態が再び起こるのを避けるため、クセルクセス1世はアトス山の岬を切り開いて運河を作った。
ギリシア
- アテナイのアルコンであるテミトクレスは、ギリシアは海戦でペルシアを破るべきであることに気づいた。しかし、この戦略を実行するためには、アテナイには、現有の70隻よりも遙かに多くの三段櫂船が必要であった。テミトクレスは、当初は他の指導者から反対されていたが、ラブリオの公営銀山で多くの銀が産出されると、議会を説得し、余剰金の全てを海軍の増強に回して200隻を建造した。
インド
- 釈迦の遺骨(仏舎利)は8つの部分に分けられ、8つの聖骨箱に分納された。それぞれの聖骨箱は、卒塔婆と呼ばれる埋葬塚に収められた。アショーカ王は8つの卒塔婆を開き、遺骨をさらに多くの卒塔婆に分けた。恐らくそのうちの1つはサンチであると考えられている。