欽宗

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テンプレート:Amboxテンプレート:DMCA テンプレート:基礎情報 中国君主 欽宗(きんそう)は、北宋の第9代(最後の)皇帝徽宗の長子で、南宋で即位した高宗の長兄に当たる。

人物

1125年、父の徽宗が対の外交政策に失敗し、金は宋に対して大軍をもって攻撃を行った。この事態に徽宗は「自らを罪する詔」を出し、帝位を欽宗に譲り太上皇となった。翌年、金が開封を包囲すると欽宗は李綱を任用して防御に当たったが、賠償金の支払いと領土を割譲する条件で金と和議が成立することとなった。

しかし金軍が撤退すると、宋の官人の間では金に対して強硬論が主張されるようになり、賠償金や領土割譲を拒否する方針に転換した。この宋の違約に金は再び開封を攻め、陥落させた。徽宗と欽宗は金軍により捕虜となり(靖康の変)、1128年に韓州(吉林省梨樹県)を経て1130年に東北の五国城(黒竜江省依蘭県)へと連れ去られた。またこの時同時に徽宗の妃韋氏、欽宗の妃朱皇后など、宋の宮廷の妃、皇女、あらゆる宗室の女性や女官、宮女達が、金軍の慰安用に北に連行され、後宮に入れられた後、1128年6月には金の官設の妓楼である洗衣院に下されて金人皇族・貴族を客とするの娼婦になることを強いられた[1]。その結果、朱皇后は、その境遇に耐えかねて、入水自殺している[2][3]

1127年、欽宗の弟・趙構(高宗)が南宋を興すと、欽宗は複雑な立場に立たされる。欽宗の南宋帰還が認められれば、高宗は簒奪者とされる可能性があった(実際に、1129年明受の乱では、反乱軍が高宗即位の正統性を問題にしている)。これは、宋は歴代王朝の中でも、特に正閏論が厳格な時代であったためである。金の側も欽宗帰還を計画したが、高宗から抑留継続の要望が婉曲に出され、結局、南宋への帰還は実現しなかった。また、高宗の生母である韋夫人が南宋へ帰還する際に欽宗は、韋夫人の影響力を行使して南宋帰還を高宗に依頼するよう涙を流して嘆願したと伝わる。

欽宗はその後も30年以上にわたって中国東北部に監禁され続け、1161年に五国城にて62歳で没した[4][5][6]

宗室

后妃

  • 朱皇后 (洗衣院に入れられ、そこで自殺した[7]
  • 朱慎徳妃(朱皇后の従妹)
  • 鄭夫人

子女

注釈

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テンプレート:北宋・南宋の皇帝
  1. 『靖康稗史箋證』
  2. 『靖康稗史箋證・卷6』「呻吟語」朱后歸第自縊,甦,仍投水薨。
  3. 『靖康稗史箋證・卷6』「燕人麈」是夜、少后朱氏自縊、救免、仍死于水。
  4. 宋史』「本紀第23」、『金史』「本紀」および『続資治通鑑』「第130巻」
  5. いずれの史書も欽宗が死去したことのみ記述されており、また、欽宗の子孫は彼が逝去した1161年に海陵王によって、殺害され子孫が断絶したとされている。その海陵王は同年に殺害されている。その一方、南宋末の通俗説話宣和遺事』では、1156年に海陵王の命令によって57歳の欽宗と82歳のの最後の皇帝天祚帝(正史では1128年没)が击鞠ポロ)の競技の試合をすることになり、欽宗は落馬して馬に踏まれて死亡した。仰天した天祚帝は逃走するが、射殺されてしまった、と記載されている。
  6. 『金史』太宗本紀にある天会5年2月丙寅に詔で、欽宗は父徽宗ともども庶人に落とされた。天会6年8月丁丑には徽宗は昏德公、欽宗は重昏侯に封ぜられている。『金史』熙宗本紀では、皇統2年2月乙酉に徽宗は天水郡王、欽宗は天水郡公に改封されている。『金史』海陵本紀では、正隆元年6月庚辰に「天水郡公趙桓薨」とあるが、正隆元年は1156年のことである。正隆6年こと1162年5月に没した『宋史』欽宗本紀と食い違う部分がある。
  7. 『靖康稗史箋證・卷6』「燕人麈」是夜、少后朱氏自縊、救免、仍死于水。