最上 (重巡洋艦)
最上(もがみ)は、日本海軍の最上型重巡洋艦1番艦。呉海軍工廠にて建造。艦名は山形県を流れる最上川にちなみ命名された。「最上」の名を持つ艦としては二隻目であり、初代「最上」は通報艦であった。ミッドウェー海戦で損傷後、航空巡洋艦に改装された。
目次
艦歴
第四艦隊事件
「最上」は1931年(昭和6年)10月27日に起工し、1935年(昭和10年)7月28日に就工した[1]。竣工後、松下元中将の第四艦隊に所属して三陸沖での大演習に参加、9月26日に第四艦隊事件に遭遇する[2]。「最上」はカタパルトに固縛していた水上機が大破、前部構造物の垂直鋼板がひずんで第二砲塔が旋回不能、外板の溶接部に亀裂が生じて浸水被害を受けた[3]。このため大改修が行われることとなる。1937年(昭和12年)12月に第7戦隊に編入、1939年(昭和14年)には主砲換装工事に着手し、事実上の重巡洋艦となる。対外的には基準排水量8,636トンの軽巡洋艦のままだった[1]。
太平洋戦争緒戦
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時の「最上」は第二艦隊第七戦隊に属し、南方作戦に参加した。マレー、クチン、パレンバンなど、蘭印作戦における上陸作戦を支援している。
バタビヤ攻略作戦中に生起した1942年(昭和17年)3月1日のバタビア沖海戦では僚艦「三隈」とともに米重巡「ヒューストン」(USS Houston, CL-30/CA-30) と豪軽巡「パース」(HMAS Perth) を撃沈する。この際に目標を外れた酸素魚雷が第16軍軍司令官今村均陸軍中将以下将兵らが座乗する陸軍特殊船「神州丸」及び輸送船2隻に命中し大破擱座、及び輸送船「佐倉丸」と第二号掃海艇に命中し沈没した。その後、セイロン沖海戦に参加、通商破壊作戦で戦果を挙げる。
ミッドウェー海戦
1942年(昭和17年)6月に生起したミッドウェー海戦に、「最上」は近藤信竹中将指揮する第二艦隊・第七戦隊四番艦として参加した[4]。日本時間6月5日、南雲忠一中将指揮する南雲機動部隊は予期せぬ米軍機動部隊の出現と対応に混乱し、その隙をついた奇襲により主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を失った。後方の戦艦「大和」に乗艦する連合艦隊司令部(山本五十六司令長官、宇垣纏参謀長、黒島亀人参謀等)は、夜戦に持ち込むことで米機動部隊を撃滅することを企図し[5]、海上水上戦闘の妨げとなるミッドウェー島の航空戦力を夜間のうちに破壊することを第二艦隊(近藤艦隊)に命じた[6][7]。そこで近藤中将が指名した部隊は、栗田健男少将の第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)、駆逐艦「荒潮」、「朝潮」だった[6]。
だが日本時間午後11時55分、山本長官はGF電令作第161号でミッドウェー攻略作戦の中止と各艦隊の撤退を命じた[8]。日本軍にとって不運なことに、ミッドウェー基地砲撃中止命令は第七戦隊に直接伝えられず、第八戦隊を迂回して届けられたので、「最上」以下3隻はミッドウェー島から90浬の地点にまで進出していた[9]。第七戦隊は直ちに針路を北北西にとり、28ノットで第二艦隊との合流地点へ急いだ[10]。反転してから約1時間20分後、米潜水艦「タンバー」 (USS Tambor, SS-198)は数隻の艦隊を発見し、位置情報を打電した[11]。直後、「タンバー」は日本艦隊が接近したため急速潜航を行う[11]。第七戦隊も右45度前方5000mに「タンバー」を発見し、旗艦「熊野」は左緊急45度一斉回頭を命じた[12]。この命令が後続艦にうまく伝わらず、「熊野」と「鈴谷」は衝突しかけ[13]、「最上」は「三隈」の左舷に衝突した[14]。殆どの兵が衝突ではなく被雷と感じた程の衝撃であった[15]。栗田少将は「大和」に対し「最上前進の見込み立たず、三隈支障なし」と報告し、「最上」と「三隈」に南西方向のトラック島へ退避するよう命じる[16]。その後栗田は「熊野」と「鈴谷」を率いて、主力部隊に合同すべく北西に針路をとった[17]。「タンバー」は魚雷が残っていたにも関わらず、「最上」を追跡しなかった。
夜が明けると、「三隈」からは「最上」の艦首が完全につぶれているのが目撃された[18]。それでも猿渡正之運用長らの必死の応急作業により、「最上」は速力14ノット程度で前進可能となった[19]。損傷した最上型重巡洋艦2隻は、「三隈」の指揮下で退避行動を続ける。6月6日のミッドウェー島から飛来したB-17爆撃機の水平爆撃や、SB2Uビンジゲーター6機、SBDドーントレス6機の爆撃に対しては[20]、至近弾1発による「最上」戦死者2名の損害ですんだ。米軍側は「最上」に爆弾2発命中、さらにSBU隊指揮官フレミング大尉が「三隈」の四番砲塔に体当たりしたと主張し、フレミングはメダル・オブ・オナー勲章を死後授与された[21]。6月7日午前5時、「最上」と「三隈」は駆逐艦「荒潮」、「朝潮」と合流する[22]。
同時刻、レイモンド・スプルーアンス少将は「空母1隻、駆逐艦5隻」、「戦艦1隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦3隻」、「重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻」という索敵機の報告を受け、空母「ホーネット 」(USS Hornet, CV-8)に攻撃を命じた[23]。直ちにF4Fワイルドキャット8機、SBDドーントレス26機が発進する[23]。続いて空母「エンタープライズ 」(USS Enterprise, CV-6)からワイルドキャット12機、ドーントレス31機が発進した[24]。ところが、空母と戦艦を含む日本軍機動部隊の正体は、「最上」、「三隈」、「荒潮」、「朝潮」だった[23]。「最上」は爆弾5発を被弾する。1発目は五番砲塔に命中して砲員全員を戦死させた上に四番砲塔にもダメージを与え、砲員18名中無傷の者は2名だけだった[25]。飛行甲板に命中した一弾は水上偵察機3機を吹き飛ばし、火災を発生させる[26]。火災の起きた飛行甲板の下には魚雷発射管と予備の酸素魚雷があった。内籐力(海軍中佐・水雷長)が全魚雷を射出放棄したため、かろうじて致命的な誘爆を避けることに成功する[27]。一方、「ホーネット」から発進した第二波攻撃隊(ドーントレス23機)は、重巡1隻に爆弾1発、別の1隻に爆弾6発の命中を主張し、B-17爆撃機6機も巡洋艦1隻の撃沈を主張した[28]。ただし、B-17の沈めた巡洋艦の正体は米潜水艦「グレイリング」(USS Grayling, SS-209)である[28]。
一連の米軍機動部隊の攻撃により、「三隈」は沈没、「最上」は大破し91名が戦死、「荒潮」、「朝潮」も小破した[29]。「最上」は「三隈」の生存者150名程を救助し、6月8日午前7時、近藤信竹中将の旗艦「愛宕」以下第二艦隊と合流した[30]。西村祥治少将指揮する第四水雷戦隊旗艦「由良」は「最上」に対し「司令官より艦長へ。連日の勇戦奮闘に心からの敬意を表する。ここに武運めでたき貴艦に会し、感無量なり」という信号を送っている[31]。7月4日、「最上」以下第七戦隊はトラック島に到着した[32]。「最上」は応急修理をおこなったのち、8月5日にトラック島を出港し、8月11日に佐世保に到着した[33]。
航空巡洋艦への改装
帰国後、12月から佐世保工廠で後部砲塔を撤去し水上偵察機繋止用航空甲板を設置する改修工事に入る。翌1943年(昭和18年)5月に工事は完了し航空巡洋艦として水上機11機を搭載可能となる。発艦は従来から設置されている射出機で行われた。水上機待機甲板と発艦甲板に段差があった利根型重巡洋艦と異なり、本型の艦体後部は平坦で、近代の駆逐艦、巡洋艦のヘリ甲板を彷彿させる外観になった。ただし実際に搭載した機数は1944年(昭和19年)中頃までは零式水偵4機、零式水観3機の計7機、それ以降は計5機(機種不明)で定数の11機を搭載したことはなかったようである[34]。
1943年11月のラバウル空襲では敵機2機を撃墜するものの、被弾により大破し、18名が戦死した。日本に戻り呉工廠にて修復工事を行う。その後1944年10月25日のスリガオ海峡海戦にて米艦隊と交戦、操舵不能となりながら退避中重巡「那智」と衝突。戦場離脱後の空襲により航行不能となり、バナオン島ビニト岬南東約38海里の地点で、駆逐艦「曙」により雷撃処分となる。
二度の衝突事故
最上は戦中、二度の衝突事故に見舞われるという不運な艦であった。
一度目は、ミッドウェイ海戦での上陸作戦中止撤収の際、旗艦「熊野」が敵潜水艦を発見、「左45度緊急回頭」を後続艦に信号。回頭したところで、また敵潜水艦を発見し再び「左45度緊急回頭」を信号し熊野は90度転針した。しかし、この二度の信号が後続艦に混乱をきたし、ある艦は二度目の信号は再確認の意味だと理解し、ある艦は旗艦の指示どおり90度回頭し隊列がバラバラになった所で、「三隈」の左舷中央部に「最上」の艦首が衝突した。艦首がひしゃげた「最上」は速力が低下し、この後の空襲で後甲板を大破した「最上」は、後甲板を飛行甲板に改造する。
2度目はスリガオ海峡海戦の際、敵艦隊の攻撃で敵の砲弾が機関部に命中、速力が8ノットまで落ちてしまった。燃える艦橋の中で藤間艦長が、「やられてしまったな、レイテ突入は無理だ。陸にのし上げて陸戦隊として最後まで戦おう。」というのに対し航海長が、「われわれは、海峡に入口まで来ていると思います。われわれは船乗りです。艦を捨てることはできません。」と反論、藤間艦長が、「そんなこと言っても君、たいまつを背負って(火災が起きてる状態で)突入は無理だ。」と議論をしている最中に艦橋へ敵弾が命中、艦長、副長、航海長、艦橋にいた将兵が戦死した。その後、到着した志摩清英中将の指揮する第五艦隊は、燃え上がる味方艦に旗艦「那智」が微速前進していた「最上」の前を横切ろうとした所、「最上」の左舷に衝突した。
歴代艦長
艤装員長
- 鮫島具重 大佐:1934年3月14日~
艦長
- 鮫島具重 大佐:1935年2月1日~
- 伊藤整一 大佐:1935年11月15日~
- 小林徹理 大佐:1936年4月15日~
- 高塚省吾 大佐:1936年12月1日~
- 千葉慶蔵 大佐:1938年4月20日~
- 伊崎俊二 大佐:1939年11月15日~
- 有賀武夫 大佐:1941年1月8日~
- 曽爾章 大佐:1941年9月10日~
- 佐々木静吾 大佐:1942年11月10日~
- 相徳一郎 大佐:1943年4月14日~
- 藤間良 大佐:1944年4月10日~1944年10月25日(艦橋への直撃弾により戦死。同日、最上沈没)
脚注
同型艦
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C05110623200「第3501号 6.10.27 最上」
- Ref.C05110629200「第171号の8 10.8.17 最上」
- Ref.C08030040400「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」
- Ref.C08030023900「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(2)」
- Ref.C08030024000「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(3)」
- 雑誌『丸』編集部『丸スペシャルNo122 重巡最上型/利根型』(潮書房、1987年)
- 雑誌『丸』編集部『写真 日本の軍艦 第7巻 重巡Ⅲ』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0457-1
- 『丸』編集部編『軍艦メカ3 日本の重巡』(光人社、1991年)ISBN 4-7698-0563-2
- 橋本敏男\田辺弥八ほか『証言・ミッドウェー海戦 テンプレート:Small』(光人社、1992年) ISBN 4-7698-0606-x
- テンプレート:Cite book 1935年7月から「最上」勤務。鮫島艦長を殴って巡洋艦「青葉」に転出。
- 亀井宏『ミッドウェー戦記 テンプレート:Small』(光人社NF文庫、1995年) ISBN 4-7698-2074-7
- 『歴史群像』編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.38 最上型重巡』(学習研究社、2002年) ISBN 4-05-602880-X
- ゴードン・W・プランゲ著、千早正隆訳『ミッドウェーの奇跡』(原書房、2005年)上巻 ISBN 4-562-03874-8 下巻 ISBN 4-562-03875-6
関連項目
- ↑ 1.0 1.1 「第171号の8 10.8.17 最上」、2頁
- ↑ #どん亀艦長青春記76頁
- ↑ #どん亀艦長青春記77頁
- ↑ 「ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」、3頁
- ↑ プランゲ『ミッドウェーの奇跡』下巻、112頁
- ↑ 6.0 6.1 プランゲ『ミッドウェーの奇跡』下巻、116頁
- ↑ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」、39-40頁
- ↑ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」、13-14頁
- ↑ プランゲ『ミッドウェーの奇跡』下巻、148頁
- ↑ 『証言ミッドウェー海戦』、188頁
- ↑ 11.0 11.1 プランゲ『ミッドウェーの奇跡』下巻、149頁
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記』、547頁
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記』、548頁
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記』、553頁
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記』、554頁、芳野三郎(兵長、最上機関科)、古田賢二(一等水兵、砲術科)
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記』、556頁
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記』、557頁
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記』、557-558頁
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記』、560頁
- ↑ プランゲ『ミッドウェーの奇跡』下巻、152頁
- ↑ プランゲ『ミッドウェーの奇跡』下巻、153頁
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記』、563頁
- ↑ 23.0 23.1 23.2 プランゲ『ミッドウェーの奇跡』下巻、169頁
- ↑ プランゲ『ミッドウェーの奇跡』下巻、170頁
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記、』575頁
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記』、577頁
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記』、578頁
- ↑ 28.0 28.1 プランゲ『ミッドウェーの奇跡』下巻、174頁
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記』、590頁
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記』、592頁
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記』、593頁
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記』、594頁
- ↑ 亀井『ミッドウェー戦記』、596頁
- ↑ 『軍艦メカ3 日本の重巡』、133頁の記述による。