岡見治資
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岡見 治資(おかみ はるすけ、天文元年(1532年) - 永禄12年(1569年))は常陸小田氏の一族。小田治孝の子。岡見治広の父。谷田部城城主。弾正忠。
岡見氏は小田氏の一族で、この治資の系統の他にも数家存在する。
常陸の国境付近に勢力を持ったため、佐竹氏とたびたび争ったという。永禄12年(1569年)、手這坂の戦いで氏治軍の一軍として戦い、真壁久幹配下の根来法師大蔵坊の鉄砲に胸板を撃ち抜かれ[1]戦死した。
しかし、彼の父とされる小田治孝は生まれる36年前に死亡しており、一代欠落しているか、治資自身の生年が実は誤りか、実は血縁関係(いわゆる死後養子)はないと考えられる。
脚注
テンプレート:Reflistテンプレート:Asboxテンプレート:Japanese-history-stub- ↑ 『奥羽永慶軍記』無明舎出版 210頁 「爰に根来法師大蔵坊、鉄砲の上手なりしが、真先に進たる岡見弾正が胸板を打ぬけば」