小アグリッピナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 皇族・貴族 テンプレート:Sister 小アグリッピナテンプレート:Lang-la, 西暦15年11月6日 - 西暦59年3月19日-23日)はローマ帝国ユリウス・クラウディウス朝の皇族。正式の名前はユリア・アグリッピナテンプレート:Lang-la)、後にユリア・アウグスタ・アグリッピナテンプレート:Lang-la)と名乗る。

皇帝ネロの母親として知られている。父はゲルマニクス、母は大アグリッピナ。兄に第3代皇帝カリグラがいる。

生涯

薄幸な前半生

小アグリッピナことユリア・アグリッピナはオッピドゥム・ウビオルム(現在のケルン)で生まれた。当時、父ゲルマニクスはアルミニウスゲルマニア人との戦争の真っ只中であった。ゲルマニクスは16年にゲルマニア総督の任を解かれ、ローマでの凱旋式の後、シリア属州として任地に赴いたが、西暦19年に没した。以来、母アグリッピナのもとで暮らす。

西暦28年、彼女は最初の結婚をする。相手は帝位継承者の一人、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス大アントニアの一人息子で西暦32年コンスル職に就いた)。結婚したものの母が西暦29年にパンダテリア島(現在のヴェントテーネ)に流罪、西暦33年に皇帝ティベリウスより処刑されるなど薄幸な前半生を送った。

カリグラの治世

37年3月16日ティベリウスが死去し、後継皇帝としてカリグラが帝位に就いた。同じ年の12月15日に息子ルキウス・ドミティウス・アエノバルブス(後のローマ皇帝ネロ)が生まれた。彼女は結婚している身ではあったが、複数の説によると、妹ドルシッラと同様にカリグラとは近親姦の関係だったと言われている。アグリッピナがかなりオープンにカリグラの周囲に顔を出していた事は事実ではあるが、この時代の上流階級は、反駁するのが難しい事を理由に、何かあると近親姦の罪状で告発される事が多かったという事も留意しなくてはならない。兄カリグラより40年に、小アグリッピナは、末妹リウィッラとドルシッラの元妻マルクス・アエミリウス・レピドゥス共に暗殺を企てたとして疎まれるようになり、ポンティアエ諸島へ流罪にさせられた。

クラウディウスの治世、そして皇妃へ

西暦41年にカリグラが暗殺され、父ゲルマニクスの弟クラウディウスが帝位に就く。アグリッピナは流刑地から戻り、裕福な元老院議員のサルスティウスと2度目の結婚をする。夫には数年後に先立たれるが、2度目の結婚で彼女は夫の不動産を手に入れた。

クラウディウスの妻メッサリナが放蕩の末に自殺を命じられると、彼の解放奴隷で一手に帝国業務の雑務を引き受けていたパッラスの手助けにより擁立され、西暦49年に結婚、皇帝の妃となる。この結婚の目的は自分の息子ネロを帝位につける事であり、そのためにローマの法律でも禁止されていた親戚関係にあたる叔父のクラウディウスとの結婚を強引に実現した。

クラウディウスは有能な政策家ではあったが、夫としてはあまり威厳がなく、また妻の行動には関心はない(あるいは忙しすぎてできない)男だったので、彼女が言われるままに彼女に「アウグスタ」の称号を与えたりした(それまで、この称号が生前に贈られる事はなかった)。彼女が軍事にまで口を出すので、皇妃は皇帝と同じ権威があると勘違いしてしまうケルト人の族長もいたと言う。

また、この時期に彼女は自分の野心、すなわち息子ネロを皇帝にさせるべく様々な布石を置いている。当時コルシカに島流しになっていたルキウス・アンナエウス・セネカをローマに戻しネロの側近として登用、後にネロの軍事的な基盤としてプラエトリアニ(近衛軍団)に注目し、同じくネロの側近としてブッルスを取り上げた。またクラウディウスに働きかけネロを養子にした反面、クラウディウスの実子ブリタンニクスを孤立化させるなどの陰謀も行った。そして西暦55年、クラウディウスが毒キノコで死去すると、ネロがローマ皇帝となる。クラウディウスの死因については、古代ローマに限らず現代の歴史家も、アグリッピナが暗殺したのではないかとも指摘している。

ネロの治世、そして最期

ファイル:Nero Agrippina aureus 54.png
アグリッピナ(右)とネロが模られた硬貨

ネロを帝位につけた後、アグリッピナは政治に色々と口出しようと試みる。しかし彼女の横柄な干渉は、皇帝として独立心が芽生えてきたネロとの間に確執を生み、やがて嫌われて皇宮から蹴りだされ、最後にはネロの命令で暗殺されてしまう。

ネロはアグリッピナとともにネアポリス(現:ナポリ)に旅行し、近郊のバイエア(現:バーコリ)の別荘で母をもてなした。アグリッピナがバイエアとはナポリ湾をはさんで数キロメートルのパウリの自分の別荘に戻ることになると、ネロは豪華な船を用意してナポリ湾を遊覧して帰るよう勧めた。息子の提案にアグリッピナも従い、陸路で帰る予定をやめて、ネロが用意した船で帰ることにした。

ところが、この船は壊れやすいつくりになっており、船が湾の半ばに差し掛かると壊して沈没させる計画であった。ネロは母后を溺死させようとしたのである。しかし、この計画はアグリッピナが泳ぎが達者だったことで失敗する。アグリッピナは九死に一生を得たことを伝える使者をネロの元に派遣するが、ネロは使者が短剣を所持しているのを理由に、アグリッピナは刺客を送り込んだと罪を着せる。皇帝暗殺の容疑をかけられたアグリッピナは、パウリの邸宅で皇帝の派遣した近衛兵によって殺された。

殺されるときに、近衛兵たちに向かって、アグリッピナは、股(あるいは腹)に指をさし「刺すならここを刺すがいい。ネロはここから生まれてきたのだから」と言い放ったという。

後世の評価

  • アグリッピナの評価は、周りに兄カリグラ、息子ネロと個性的な皇帝がいた事、また夫殺しの疑惑もあり、あまりよい評価は与えられてはいない。ただこの事は無能な母親であった事を意味せず、幼い息子の教育役に文人セネカを登用したり、息子の軍事的基盤としてプラエトリアニに注目した事にも見られるように政治的な人選に関しては卓越していた。また当時のローマ時代の女性には珍しく回想録を書いたりしたなど、非常に教養ある人物であった。
  • 後世の評価では最も不人気な人物であったと伝えられているが、後に 五賢帝の一人 トラヤヌスも賞賛するように、ネロの治世の始め5年間は「稀に見る善政」であった。小アグリッピナの政治的手腕が、彼女の曾祖父初代ローマ皇帝アウグストゥス死後以降、ローマ市民から待ち望まれていた気品に満ち溢れた時代であったことも考慮する必要がある。
  • スエトニウスの「皇帝伝」には、輿に乗って市内を移動する間にネロと近親姦をしたという話もあり、ネロが彼女を暗殺したのはこれが原因ともいわれる。

トリビア

  • アグリッピーナコンプレックスの語源としても知られる。
  • ドイツの都市ケルンはローマの植民市が起源であるが、その名は彼女の要望でクラウディウスがオッピドゥム・ウビオルムOppidum Ubiorum)からコローニア・アグリッピナColonia Agrippina)と改名したことに由来する。

系図

テンプレート:ユリウス・クラウディウス朝系図