大里王統
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テンプレート:出典の明記 大里王統(おおさとおうとう)は山南王国(南山王国)の王統。
前期は島添大里(現南城市大里。[[[:テンプレート:座標URL]]26_11_11.58_N_127_45_36.25_E_scale:10000 大里城跡])に、後期は島尻大里(現糸満市北部。[[[:テンプレート:座標URL]]26_07_39.98_N_127_41_20.51_E_scale:10000 南山(高嶺)城跡])を本拠とした。
なお、承察度(ショウサット。ウフサト=大里ともいう)も在位が60年近くと長く、明に朝貢した承察度は汪英紫の甥であることから北山の帕尼芝(ハネジ)と同じように代々続いた名前と思われる。
- 初代 承察度 1314年~1398年(3代は続いたと思われる)[1]
- 二代 汪英紫 1398年~1402年?(承察度の叔父))[1]
- 三代 汪応祖 1403年?~1413年(汪英紫の次男)
- 四代? 達勃期 1413年?~1414年?(汪英紫の長男)
- 五代(四代?) 他魯毎 1414年?~1429年(汪応祖の長男))[1]
汪英紫(オウエイシ。エージ=八重瀬ともいう)は1388年から自ら明に朝貢船を送っていることから、この頃から山南王国は二重王国体制(王が二人)か、内戦状態だったと推測できる。
更に、1398年に朝鮮で亡命した山南王温沙道なる人物が亡くなっていることから、温沙道=承察度といわれている。恐らく汪英紫に敗れたのであろう。
なお、汪応祖(オウオウソ)は実兄の達勃期(タフチ)に殺されているが、達勃期自身が王位に就いていたかは不明。
最後の王である他魯毎(タロミイ。タルモイ=太郎思いの当て字?、もしくはトゥーミ=豊見か)は一般的には汪応祖の長男といわれているが、尚巴志の長男という説や朝鮮に亡命した承察度の子であるという説もある。