大河内久綱
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大河内 久綱(おおこうち ひさつな、元亀元年2月15日(1570年3月21日) - 正保3年4月3日(1646年5月17日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士。三河国徳川氏家臣大河内氏の一族で、大河内諸氏のうち臥蝶大河内氏の出自。父は大河内秀綱。兄弟に松平正綱がいる。室は相模国後北条氏遺臣深井好秀(藤右衛門)の娘(龍泉院殿)。子に江戸幕府老中・川越藩主となった松平信綱、養子に大河内重綱がいる。通称は金兵衛。
略歴
父の秀綱は三河一向一揆で吉良氏とともに松平元康(徳川家康)と戦うが、その後吉良氏から離反して家康に仕官する。天正18年(1590年)の関東移封において武蔵国高麗郡に710石を与えられている。久綱は三河で出生し、慶長15年(1610年)10月に家康へ仕官する。元和4年(1618年)9月13日には父の秀綱が死去し、家督を相続する。
久綱は代官・勘定奉行として活躍した。関東地方の幕府直轄領の年貢に関する実務を扱い、寛永15年(1638年)に職を退いた。
江戸時代後期に編纂された系譜集である『干城録(かんじょうろく)』には、以下のような逸話が記されている。松平信綱の所には、老中という職業柄多くの進物が届いていたが、それを父にふるまっていた。久綱は、その進物を少しずつ換金しており、あるとき貯まった貯金で具足を調えて信綱に返したので、信綱が大変驚いたということである。