劉劭 (南朝宋)
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テンプレート:基礎情報 中国君主 劉 劭(りゅう しょう)は、南朝宋の皇族。字は休遠。
人物
6歳の時に文帝の皇太子に立てられる。453年、劉劭が呪詛を行ったとして、文帝は劉劭の廃立を検討するが、その動きを察知した劉劭は弟の劉濬とともに挙兵、夜間宮殿に侵入し、父文帝を殺害した。
その後、自ら皇帝に即位し、元嘉三十年を太初と改元した。踰年改元を行わないことは当時の慣例に違う行為であった。3ヶ月後、弟(文帝の第3子)武陵王劉駿(孝武帝)が将軍沈慶之の支援の下建康城内に侵入、劉劭は捕らえられ、後に処刑された。
正史である『宋書』では元凶劭という名で列伝に記されて、即位を認められていない。この影響で後世の史書では一般的に皇帝に数えられていない。
伝記資料
- 『宋書』巻99(列伝第59)
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