伊吹 (空母)

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ファイル:Japanese aircraft carrier Ibuki cropped.jpg
解体処分中の「伊吹」(1946年10月)</small>
艦歴
計画 1942年度(マル急計画
起工 1942年(昭和17年)4月24日
進水 1943年(昭和18年)5月21日
就役 未完成
退役
その後 1943年8月に空母改装決定
1945年(昭和20年)3月16日に工事中断
1946年(昭和21年)から翌年解体
要目[1]
排水量 基準:12,500トン
公試:14,800[1](15,300)トン
全長 205.0m
船体長 197.6[1](200.6)m(198.37m説あり[2])
全幅 水線幅:20.76[1](21.2)m
吃水 6.31m (公試時)
飛行甲板長 縦:205.0m × 幅:23.0m[2]
エレベーター2基
主缶 重油専焼ロ号艦本式水管缶4基
主機 艦本式ギヤード・タービン2基2軸推進[1]
最大出力 72,000hp[1]
速力 29.0ノット[1]
航続距離 18ノット-/7,500海里[1][註 1]
乗員 1,015名
兵装 九八式 7.6cm(60口径)連装高角砲2基4門
九六式 25mm(61口径)三連装機銃16基48挺
12cm28連装噴進砲4基
航空兵装 艦戦15、艦攻12[1](計27機。露天繋止11機を含む)

伊吹(いぶき)は、日本海軍航空母艦である。改鈴谷型重巡洋艦の1番艦であったが、建造途中に改設計され、航空母艦として建造されるも、未完成のまま終戦を迎えた。実戦には未参加のまま、1946年(昭和21年)解体処分されている。本艦の候補艦名としては他に、『鞍馬』もあったという[3]

建造

元は最上型(鈴谷型)重巡洋艦の準同型艦(改鈴谷型重巡洋艦)として、太平洋戦争直前の昭和16年度戦時建造計画(マル急計画)において仮称第300号艦として計画された[2]。開戦後の1942年(昭和17年)4月24日に呉工廠で起工された。魚雷発射管は4連装であったが、魚雷の次発装填装置を5連装発射管を改造したものを使って素早く装填できるようにする等、各所に改良が施されていた。

しかし、ミッドウェー海戦などの戦局の推移による建艦計画見直しにより工事中止となった[2]。船台を空けるために工事を続け、1943年(昭和18年)5月21日に進水した[註 2]。一旦は艦型が小さいため新型艦載機の運用は困難として呉軍港で放置されていた[2]が、曲折をへて8月、空母への改装が決定する。同11月に潜水母艦迅鯨の曳航によって佐世保に回航された[2]。そして1944年(昭和19年)後半に竣工させることを目標に、佐世保工廠にて工事が再開された。

しかし、重巡洋艦としての工事がかなり進んでいた船体を無理に空母として転用したため、主砲塔などの撤去工事から行わなくてはならなかったことや、佐世保工廠が他の艦船の建造や修理のほうに力を入れなければならなかった為に工事はあまり進まず、予定の工期から大きく遅れ続けた。

1945年(昭和20年)になっても建造中の上、更なる戦局の悪化に伴い物資の調達に苦労し、さらに制海権の喪失で作戦活動に従事する見込みもなくなったことから、3月16日に進捗率80%で工事は中止された[2]。その後、終戦まで湾内に放置され、自力で海上を航行することは一度もなかった。

設計

艦体

空母への改装による重心の上昇に対応するために、艦体にはバルジが増設された[4]。艦載機の大型化に対応するために、船体長よりも長い飛行甲板が設置されたため、船体前方の飛行甲板下に艦橋を設けることが出来ず[4]、日本の小型空母としては異例のアイランド艦橋)が採用された。重巡洋艦からの改装のため、格納庫は1段のみ[2]、魚雷調停場も有しない[1]。このため搭載航空機数はそれほど多くなく、エレベーターも2基のみで小さかった。改装案では、銃砲座のブルワークは丸みを帯びていたが、戦時改装に伴い直線状の簡易なものとなった[2]

戦後に撮影された写真では、艦体は迷彩を施さずに軍艦色一色で塗装されているほか、なぜか赤い水線塗装が喫水線ではなくバルジに沿って塗装されていた[2]

機関

空母への改装にあたり、ボイラータービンを半減した。後部のタービン室は航空機用のガソリンタンクとなり[4]、スクリュー軸数も、最上型重巡洋艦の4軸から2軸に減少している。これによって出力は15万2,000馬力から7万2,000馬力に減少し、最高速力は35.0ノットから29.0ノットへ減速する予定だった[2]。最高速度が30ノットに満たなかったのは、6,300海里であった重巡洋艦時の航続距離の延長と、大鷹型航空母艦などの商船改装空母がほぼ同じ速力で運用されても支障なかったためだと予想されている[2]

対空兵装

初期の改装案では、対空火器として九六式 25mm(61口径)三連装機銃を20基のみ搭載するという計画であった。だが、これだけでは不十分と判断され、機銃を22基に増加した上に阿賀野型軽巡洋艦大淀型軽巡洋艦の高角砲にも使用された「長8センチ高角砲」を搭載する予定であった。長8センチ高角砲の採用は、艦体が小さいことによる復元性の確保にあったと推定されている[2]。高角砲は当初後部に配置する予定だったが、最終的に艦体前部への配置となった。これらの対空火器は、千歳型航空母艦改装時の教訓から、反対舷への射撃もできるよう飛行甲板とほぼ同じ高い位置に設置された[1]。その後、12cm28連装噴進砲を4基装備し、機銃を16基に減らす予定だったとされているが、計画書に噴進砲の記述は無い[2]

電子兵装

戦時中に建造された艦に共通する特徴として、当初から電探(レーダー)の搭載が考慮されていた。改装案では、21号電探を艦橋上と飛行甲板前部中央(隠顕式)に各1基搭載する予定になっていた[2]

航空兵装

艦載機として、零戦の後継機として開発中だった艦上戦闘機烈風」と、艦上爆撃機・攻撃機を一機種に統合した艦上攻撃機「流星」が予定されていた。当初の改装案では各15機の計30機としたが、のちに流星を12機に減らし、合計27機とした。格納庫が小さかったため、15機の烈風は4機のみ格納庫に収納し、11機は露天繋留とした[2]。このほか、搭載が予定されていた新鋭機の「彩雲」は艦内収容が困難となり、露天繋止されることになっていた。

搭載する航空魚雷は12本で商船改装空母と同じであったが、格納庫の小型化で航空爆弾の量は大幅に制限され、80番爆弾(800㎏爆弾)は12発、25番爆弾(250㎏爆弾)は24発のみ、6番爆弾(60㎏爆弾)以下の小型爆弾は搭載しないとされた[2][註 3]

艦歴

ファイル:Japanese cruiser Ibuki.jpg
解体処分中の伊吹(1947年3月14日)
  • 1942年(昭和17年)4月24日 - 呉工廠にて起工。
  • 1943年(昭和18年)5月21日 - 進水。以後工事中止(以降も工事が続行されていたという話もある)。
  • 1945年(昭和20年)3月16日 - 工程80%で工事中止。
  • 1946年(昭和21年)11月22日 - 佐世保船舶工業(旧佐世保工廠)第7ドックで解体開始。
  • 1947年(昭和22年)8月1日 - 解体完了。

艤装員長

  1. 松浦義大佐 1945年1月20日-
  2. 清水正心大佐(佐世保港務部長兼任) 1945年2月25日-5月20日
    • 工事中止のため5月20日以降は艤装員長を置かなくなる。

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

  1. 以下の位置に戻る: 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 「建造中水上艦艇主要要目及特徴一覧表」pp.11
  2. 以下の位置に戻る: 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 2.15 2.16 小林義秀「歴史発掘 未成空母「伊吹」の明細」 『世界の艦船』第498集(1995年7月号) 海人社 pp.110~113
  3. 元の位置に戻る 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9、p78。 遠藤昭による
  4. 以下の位置に戻る: 4.0 4.1 4.2 『丸』2012年10月号
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第4巻 空母Ⅱ』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0454-7
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第7巻 重巡Ⅲ』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0457-1
  • 長谷川藤一『軍艦メカニズム図鑑 日本の航空母艦』(グランプリ出版、1997年) ISBN 4-87687-184-1

関連項目

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