二条良実

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二条 良実(にじょう よしざね、建保4年(1216年) - 文永7年11月29日1271年1月11日))は、鎌倉時代中期の公卿。父は九条道家(良実は次男)。母は西園寺公経の娘。兄に九条教実、弟に征夷大将軍藤原頼経一条実経一条家の祖)、子に二条道良二条教良二条師忠二条経通二条兼基がいる。

経歴

父と母方の祖父が朝廷の実力者であったことから、15歳の若さで従三位となる。20歳の時には内大臣となる。ところが父道家は良実をあまり愛さず、むしろその弟にあたる一条実経を寵愛するようになる。だが、この頃の朝廷では関東申次である祖父の西園寺公経が道家を上回る実力を持っていたこともあって、後嵯峨天皇践祚した仁治3年(1242年)には公経の推薦で関白に任じられるまでに至った。ところが公経が死去すると、朝廷は道家によって掌握されるようになってしまう。このため寛元4年(1246年)1月、父の命令によりやむなく関白職を実経に譲ることを余儀なくされた。

同年、名越光時が良実の弟の頼経を擁して北条時頼に謀反を起こしたため、頼経は京都に強制送還され、連座として父の道家は朝廷から去ることを余儀なくされ、実経も関白を罷免されるにいたった。ところが良実は父親と疎遠な関係にあったことから時頼に処分されなかったため、これを道家は良実が時頼と内通して自分たちを貶めたと猜疑し、良実は父から義絶されてしまったのである。

しかし道家が死ぬと再び勢力を盛り返し、弘長元(1261年)には再び関白となる。文永2年(1265年)、関白職を弟の実経に譲ったが、なおも内覧として朝廷の実権を掌握した。文永7年(1270年)11月11日、病気のために出家して行空と号したが、11月29日に55歳で死去した。法号:普光園院。

なお、良実は居所を二条京極第に置いたことから、良実から始まる系統は二条家と号したとされている。ただし、当時の記録(『平戸記』など)によって確認される良実邸の所在地は二条富小路である。後に二条家は五摂家の一つとなる。

官職位階履歴

※日付は旧暦

  • 1226年(嘉禄2年)12月13日、元服し、正五位下に叙位。12月16日、侍従に任官、
  • 1227年(嘉禄3年)1月26日、右近衛少将に転任。12月25日、右近衛中将に転任。
  • 1228年(安貞2年)1月5日、従四位下に昇叙し、右近衛中将如元。2月1日、播磨介を兼任。
  • 1229年(安貞3年)1月5日、正四位下に昇叙し、右近衛中将如元。改元して寛喜元年10月29日、従三位に昇叙し、右近衛中将如元。
  • 1230年(寛喜2年)1月24日、伊予権守を兼任。2月8日、正三位に昇叙し、右近衛中将伊予権守如元。
  • 1231年(寛喜3年)3月6日、従二位に昇叙し、右近衛中将伊予権守如元。3月25日、権中納言に転任し、右近衛中将如元。4月29日、正二位に昇叙し、権中納言右近衛中将如元。10月28日、春宮(秀仁親王。のちの四条天皇)権大夫を兼任。
  • 1232年(貞永元年)10月4日、春宮権大夫を去る。(秀仁親王即位による。)
  • 1233年(貞永2年)4月8日、左近衛大将を兼任。右近衛中将を去る。
  • 1235年(文暦2年)6月17日、権大納言に転任し、左近衛大将如元。10月2日、内大臣に転任。10月3日、左近衛大将如元。
  • 1236年(嘉禎2年)6月9日、従一位に昇叙し、右大臣に転任。左近衛大将如元。
  • 1238年(嘉禎4年)1月26日、左近衛大将を辞任。7月24日、左大臣に転任。
  • 1242年(仁治3年)1月20日、関白宣下。藤原氏長者宣下。左大臣如元。
  • 1244年(寛元2年)6月1日、左大臣を辞任。
  • 1246年(寛元4年)1月28日、関白を辞す。
  • 1261年(弘長元年)4月29日、再度、関白宣下。
  • 1265年(文永2年)4月18日、関白を辞す。7月16日、内覧宣下。
  • 1268年(文永5年)12月27日、内覧を辞す。
  • 1270年(文永7年)11月11日、出家し、行空と号す。11月29日、薨去。

系譜

参考文献

  • 近藤敏喬 編『宮廷公家系図集覧』、東京堂出版、1994年、ISBN 4-490-20243-1


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