クルディスタン労働者党

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テンプレート:更新 テンプレート:Infobox 組織

クルディスタン労働者党(クルディスタンろうどうしゃとう、トルコ語:Kürdistan İşçi Partisi, クルド語:Partiya Karkerên Kurdistan, PKK)は、クルド人の独立国家建設を目指す武装組織。旧称はクルド人民会議(KONGRA-GEL)。同組織は2002年4月にクルド労働者党(PKK)からクルディスタン自由民主会議(KADEK)に改称し、さらに2003年11月15日に現名称となった。これらの改称はテロリスト集団認定を法的に回避することが目的だったといわれている。トルコではこれを踏まえ、PKK/KONGRA-GELと併記する。

前身のクルド労働者党(PKK)は、マルクス・レーニン主義派のクルド人により1974年に創設された。専従活動家は4千~5千人ほどである。トルコ、西欧、近東及びロシアで活動している。シリアイランサッダーム・フセイン時代のイラクから資金援助を受けていた。1998年、シリアは党首のアブドゥッラー・オジャランを国外に追放したが、資金援助は停止していない。

1990年代初め、クルド労働者党時代においては市街ゲリラ戦を布告した。トルコ経済を破壊するためにホテルが爆破され、外国人観光客が誘拐された。オジャランの逮捕後、PKKは平和的路線を歩むことを公式表明した。

現在の指導者はムラト・カラユラン(Murat Karayilan)。

概要

ファイル:Pkk supporters london april 2003.jpg
ロンドンテンプレート:仮リンクで、クルディスタン労働者党の旗を掲げるクルド人支持者

かつてはPKKとの交戦自体が民族弾圧であるとの指摘を受け、EU加盟への障害の一つとなっていたが、現在ではアメリカやEUなどによってテロ組織認定をされている。トルコ国内ではPKK/KONGRA-GELのテロ行為によって2004年までに民間人30,000人以上が死亡したといわれている。

資金源の大半を、不法な麻薬取引とヨーロッパに住むクルド人による献金で得ていたとされる。かつての支援国は旧ソ連ギリシャ軍事政権。現在の拠点はイラク北部のクルディスタン地域シリアアルメニアと見られている。

軍事部門としてクルディスタン人民解放軍(英語:People's Liberation Army of Kurdistan)を有する。主にトルコ南東部で、トルコ軍に対する攻撃を仕掛けている。訓練キャンプがイラク北部のカンディール山脈等に存在する。

イデオロギー

PKKのイデオロギーは、クルド民族のトルコからの独立を求めるクルド民族主義の他に、左翼政党でもあるのでマルクス・レーニン主義共産主義を掲げている。

略史

PKKは、1973年にアンカラで「アンカラ民主・愛国主義教育協会」として結成され、1978年に現在の組織名となった。当時はトルコ国内で学生運動が盛んだったため、メンバーの大半が学生であった。アブドゥッラー・オジャランを党首とし、活動地域をアンカラ周辺からクルド住民が多く住むトルコ東南部へと移動した。 同地でクルド人に対する宣伝活動を展開し、特に多くのクルド青年の心を引きつけたとされる。そして、1980年代[1]にトルコ東南部でテロ活動を起こし、標的はトルコ人だけではなく、親トルコ派のクルド人もテロの対象とされた。また、PKKはクルド民族主義だけではなく左翼組織だったため、右派のクルド民族主義組織(たとえばトルコ・ヒズボラ)とも抗争を繰り広げた。

このため、クルド人の間にも多くの犠牲者が出て、トルコ・クルド人の間からの支持を減らした。その後、活動拠点を国境問題を巡ってトルコと対立していたシリアレバノン北部に移動し、軍事キャンプを設立し、テロ活動をトルコ東部から南部・北部にまで拡大した。しかし、冷戦終結と共に最大の支援国であったソ連が崩壊、またトルコ軍の激しい掃討作戦により組織が弱体化した。最終的にはシリアからも追放され、1998年にはオジャラン党首がトルコ・アメリカ・イスラエルの情報機関の連携によりケニアで逮捕された。

その後は政治部門に当たる数多くの小政党を作り、トルコの地方議会などでPKK寄りのクルド人政治家を出した。現在では、PKKと関係のあると見られる政党は厳しく制限・監視されている。

脚注

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外部リンク

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  1. 1984年反政府武装闘争路線に転換