新発田城
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新発田城(しばたじょう)は、現在の新潟県新発田市(越後国蒲原郡)にある城郭。別名、菖蒲城(あやめじょう)。新発田藩の藩庁が置かれていた。新潟県内では唯一、江戸時代当時の城郭建築が現存する城跡である。
概要
近くを流れる新発田川の流れを利用した平城であった。石垣には石同士の接合部分を隙間なく加工して積み上げる工法である切り込みハギが用いられている。
櫓の壁には冬季の積雪への対策の意味もあり、海鼠壁(なまこかべ[1])が用いられていた。その他の塀や一部の櫓門には、下見板が張られていた。
天守はなく、本丸の北西隅に3重櫓を上げて「三階櫓[2]」と呼んでいた。三階櫓は新発田城における実質的な天守であった。1654年(承応3年)に創建されたものは、1668年(寛文8年)の火災により焼失し、現在復元されている姿のものは1679年(延宝7年)に再建されたものである。明治初期に撮影された写真によれば、続櫓(付櫓)を伴った複合式層塔型3重3階で、1重目の西面と南面に切妻破風を持った石落としを兼ねる出張りがあり、3重目屋根の棟は丁字型に造られ、棟上には3匹の鯱が載せられている。1874年(明治7年)に破却された。
歴史・沿革
近代以前
最初に城が築かれた時期は不明だが、鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考えられている。代々新発田氏の居城となっていたが、1581年(天正9年)、新発田重家が上杉景勝に対して反乱を起こした(新発田重家の乱)。1587年(天正15年)、景勝により新発田城は落城。新発田氏は滅亡した。
その後上杉氏の会津転封に伴い、1597年(慶長2年)、溝口秀勝が6万石の所領を得て新発田に入封。新発田藩領内を治めるための拠点として新発田重家の旧城の地を選び、新発田城の築城を行っていった。城が完全な形となったのは1654年(承応3年)頃、3代宣直の時代といわれる。その後1668年(寛文8年)、1719年(享保4年)に火災によって城内建築に大きな被害を受けるが、その度に再建されている。
近現代
- 1873年(明治6年)に明治政府より発布された廃城令により、表門・二の丸隅櫓[3]と石垣のみを残し、城内の建物は三階櫓など大半が破却され、明治政府に接収された城跡には陸軍の歩兵第16連隊が置かれた。
- 長年に渡って城郭の復元を住民等に望まれ、近年より、明治初頭に撮影された古写真などを資料として考証・設計された在来の伝統的手法による復元の計画が進められ、2004年(平成16年)に三階櫓と辰巳櫓が復元され、辰巳櫓のみ、同年7月から一般公開されている。
- 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(31番)に選定された。
現地情報
城郭跡の大部分は日本軍解体まで陸軍が置かれていた事も有り、現在も陸上自衛隊の駐屯地(新発田駐屯地)となっている。その関係により、城内の建築のうち観覧できるものは、二の丸隅櫓・本丸表門・辰巳櫓である。自衛隊の敷地に入り込んだ所に位置する三階櫓の内部は公開されていない。表門と二の丸隅櫓は国の重要文化財に指定されている。
新発田城周辺は新発田城址公園として整備されており、憩いの場となっている。また城郭跡には、初代藩主・溝口秀勝の銅像と、溝口秀勝の曾孫にあたるといわれる堀部武庸の銅像が建っている。
下屋敷であった清水園(清水谷御殿)は国の名勝、同園内にある足軽長屋[4]は国の重要文化財に指定されている。溝口家の茶寮であった五十公野御茶屋は国の名勝、新潟県の文化財に指定されている。
所在地
- 新潟県新発田市大手町6
交通アクセス
- JR羽越本線「新発田」駅から徒歩約20分
通称
現在も城郭跡地の大部分が陸上自衛隊の新発田駐屯地となっているため、三階櫓に行けないなど、新発田城の観光地化の支障となっている。しかしその反面、ここを訪れる観光客の中では、城と重なる駐屯地の光景を見て、「戦国自衛隊のようである」と感想を漏らす人々が非常に多い。かつては浮船城、狐の尾引き城、あやめ城と呼ばれていた新発田城であるが、近年では戦国自衛隊の城という愛称で呼ばれることが増えてきている。