洪茶丘

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洪茶丘(こうちゃきゅう、こうさきゅう、ホン・タグ1244年1291年)は高麗王朝や大元朝に仕えた軍人。唐城の出身。テンプレート:仮リンクの第2子で、本名は俊奇。

父・洪福源は高麗北部の国境を守る軍人であったが、モンゴルの攻撃を受けて1231年に降伏したうえ、モンゴルの高麗侵攻にも協力したという。このため、1261年に父は高麗の王族、永寧公テンプレート:仮リンクの讒言を受けて、元にて処刑された。これを恨んだ息子の洪茶丘は、その後、祖国である高麗に対して激しく憎悪を燃やしたという。父の職を継いで管領帰附高麗軍民總管となった。

このため、洪茶丘はクビライのもとで将軍となり、1271年には三別抄の反乱鎮圧に司令官である經略使、ヒンドゥ(忻都)指揮下で活躍する。その後、クビライが日本遠征を計画すると、監督造船官軍民總管を命じられ、祖国に対する復讐のために同じ高麗人に対して重い賦役を強いた。1274年文永の役では司令官忽敦に従い、劉復亨とともに元軍の副司令官(右副元帥)を務めていたが、日本軍の激しい抵抗に遭い、撤退を余儀無くされた。

その後も祖国に対して厳しい賦役を強いると共に、文永の役では中軍の都監使として弘安の役では管領高麗軍都元帥および征日本都元帥として従軍した同国人である将軍・金方慶を讒言して陥れようとしたりした。1281年弘安の役にも東路軍の司令官、東征都元帥として出陣したが、志賀島の戦いにおいて日本軍に大敗し、日本軍の追撃を受けて自身も危うく討ち死に寸前まで追い詰められている。その後、1283年にクビライが第三回の日本侵攻を計画したときにも、その軍備を整える役目を果たしている。

これらの経緯から、洪茶丘は祖国を裏切った裏切者として非難されている。しかし、クビライは洪茶丘を重用したという。