角隈石宗
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角隈 石宗(つのくま せきそう、? - 天正6年11月12日(1578年12月10日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。越前守。
大友義鑑、大友義鎮(宗麟)に仕え、軍配者として武田流、小笠原流などの兵法をはじめ、占術、気象予測に優れたことから大友氏の軍師的存在であった。宗麟には幼少の頃より軍学の講師を行っており、『大友興廃記』によれば戸次鎮連を弟子に持ったという。『フロイス日本史』によれば気象予測は弟子でない人にも教えていたとされる。
また、人格者であったとされ、『フロイス日本史』によれば「日本の宗派に精通し、宗麟、義統、すべての家臣から(尊敬を超える)尊崇されている」と書かれている。日本側の記録にも石宗を「道学兼備の人」と評してあり、「道」とはすなわち礼儀作法や人間の歩むべき人間学のことであり、「学」とは兵法、神仏についての知識、気象学、天文学、易学の知識等を指す。宣教師側も石宗のことを「道理をもって(人に)説くと道の部分が一致している。他にも「誠に真俗倚頼、文武の達人なり」(『大友興廃記』)、「性質は篤実にて、大度兼備の功臣なり」(『歴代鎮西要略』)とも評されている。
1550年の菊池義武の反乱による肥後征伐や豊前平定軍に参加。1578年、島津氏を討伐しようとする宗麟を諌めたが、宗麟は石宗の諫言を聞かずに出陣する。このため石宗は、死の覚悟を決めて自身の書いた兵法書を全て焼き払って出陣し、耳川の戦いで戦死した。