浅井甚兵衛
浅井甚兵衛(あさい じんべえ、1904年5月9日 - 1984年4月27日)は、日本の在家仏教指導者。冨士大石寺顕正会の前身である妙信講の創立者。
概要
愛知県西尾市に生まれる。封建時代の浅井家は近在の三郡を束ねる庄屋であったが、近代化の流れの中で家運は徐々に傾いていった。そこで父親が浅井家復興の願いをこめ、曽祖父の名であった「甚兵衛」を彼に付けたという。
経歴
1923年、立身出世を夢見て19歳で上京するが、事業の失敗から、たちまち生活苦に陥った。
1926年12月、22歳の時に、白須郁三に折伏されて日蓮正宗に入信し、妙光寺(東京都品川区)所属の信徒となった。入信当初は勤行の習慣すら身につかなかったが、「勤行をしなかった夜、夢に借金取りが現れる」という個人的な恐怖体験がきっかけとなって、以後は勤行も実践するようになった。
1936年ごろ、白須郁三と共に、妙光寺から妙光院(現在の妙国寺。東京都板橋区高島平)へと所属寺院を移り、国粋主義的な論調の新聞「顕正の光」の発行人となって名を上げ、信徒総代となった。 その後再び妙光寺に移り、ここでも信徒総代となる。1942年には、妙光寺所属の法華講の一講中として「東京妙信講」を結成し、講頭に就任した。
第二次世界大戦後の1948年、「東京妙信講」は、内山ワカの取りなしで、講中ごと法道会(東京都豊島区)に移籍した。
法道院時代当初の甚兵衛は、信仰面においては総本山大石寺への御供養推進活動と折伏弘教に努めていた。また生活面においては、印刷会社「日東ローラー」の社長として一定の経済的成功を得た。1952年には、日蓮正宗の立宗700年記念出版事業として発行された『日蓮正宗聖典』の印刷を請け負った。
1955年、妙信講は既存の法道会法華講と合併して約三千世帯の大法華講となり、甚兵衛はこの新生「法道院法華講」の講頭に就任した(特殊形態として副講頭は置かれなかった)。長男である浅井昭衛も青年部長となった。
しかし彼の講頭就任後まもなく、法道院内部は主管派と講頭派に分かれ、激しく争うようになった。法道院に対する金銭面や行事面での外護を極力サボタージュして、あくまでも講中組織の維持・拡大を最優先していこうとする甚兵衛の方針がその原因であった。 その後、一旦は同人が講頭職を辞任し静観するが、旧友に後押しされる形で、1957年、甚兵衛・昭衛父子は320名の同志と共に、純粋に日蓮大聖人の御遺命実現のための戦いを起こすと称して、日蓮正宗をいったん離脱し、新たに、「日蓮正宗妙信講」を発足した。
但し、妙信講の発会式や第1回総会などがその後も法道院を会場で開催され、早瀬主管も出席しているので、実際には日蓮正宗は離脱していないと思われる。
しかし結局1958年1月15日、総本山大石寺第65世日淳法主の決断により、「妙信講」は日蓮正宗に復帰し、新たに東京都墨田区の妙縁寺住職・松本日仁師及び早瀬道応師の両名を指導教師とする特殊継体で、正式に再建が認められた。
1974年、正本堂をめぐる教義的対立から妙信講は講中解散処分を受け、彼個人も妙信講によるテロ事件への加担責任を問われて、日蓮正宗の信徒資格を剥奪された。1975年、講頭の職を浅井昭衛に譲って、自らは顧問へと退いた。
なお、子息浅井昭衛の理事長就任から、講頭職禅譲に至るまでの経緯が、実際には浅井昭衛の講内クーデターであったことは、当時の青年部の証言で明らかになっている。
1984年、80歳で亡くなる。
戒名(法号)は「直達院護法甚道居士」。