立原久綱
立原 久綱(たちはら ひさつな、享禄4年(1531年) - 慶長18年(1613年)4月26日)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。尼子氏の家臣。通称・源太兵衛尉。父は立原幸綱、兄は立原幸隆。
生涯
立原氏は尼子氏の直臣にあたり、久綱は奉行衆として尼子晴久の発給文書に連署している。山中幸盛の叔父にあたり、尼子義久の参謀として毛利元就との戦いでは活躍した。尼子三傑のひとり。
永禄6年(1563年)白鹿城を攻めた毛利に対し、9月23日尼子義久は弟の尼子倫久を大将として亀井秀綱以下1万余を白鹿城の後詰に送った。尼子義久の近習衆筆頭格であった久綱は、積極的救援策を主張するも、大身家老たちに圧されて受け要られなかった。馬潟原(現在の松江市東津田町及び馬潟町周辺)に陣を引いた後詰軍は、大橋川を渡り和久羅付近まで進出したものの撃退されてしまう。撤退する際、久綱と山中幸盛は殿(しんがり)として追撃する毛利軍に著しい損害を与えて、尼子倫久を富田まで逃げ延びさせること成功する。 永禄9年(1566年)、月山富田城の攻防戦では尼子倫久麾下に、山中鹿介・秋上宗信ととも塩谷口を守った。 月山富田城が落城した際は、毛利氏より2000貫で仕官を誘われたがこれを断り京へ隠棲した。
後に幸盛・神西元通らと共に、尼子一族の尼子勝久を擁して尼子氏再興に尽力する。永禄12年9月(1569年10月)におきた美保関の合戦では、敵側の隠岐為清の軍勢が尼子再興軍を窮地に陥れた際、自刃を判断した山中幸盛を励まし態勢を挽回させた。織田信長に援助を請うため上洛した際は、「立原は男も良きが、立振舞も尋常なり」と評されて貞宗の太刀を与えられた。特に尼子氏が織田信長と手を結ぶことができたのは久綱の功績によるものである。しかし、1578年に上月城が落城し尼子勝久や幸盛が死に、尼子氏の再興が絶たれると、自身も毛利軍の捕虜となるが脱走。上洛し蜂須賀氏の下にいた娘婿(岳父とも)の福屋隆兼を頼り、阿波国(現在の徳島県)渭津に居住し、慶長18年(1613年)4月26日に83歳で世を去っている。
慶長18年(1613年)に病死。法名・節山院珠榮全忠居士。墓所は島根県松江市東津田 長源寺、または島根県安来市伯太町粕原地区や島根県雲南市加茂町立原地区にもある。