武田信繁
武田 信繁(たけだ のぶしげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏18代・武田信虎の子で、武田信玄の同母弟。
官職である左馬助の唐名から「典厩(てんきゅう)」と呼ばれ、嫡子・武田信豊も典厩を名乗ったため、後世「古典厩」と記される。武田二十四将においては武田の副大将として位置づけられている。
生涯
『高白斎記』に拠れば、信繁は大永5年(1525年)、武田信虎の子として生まれる。幼名は次郎。武田氏では天文10年(1541年)に信虎の嫡男晴信が信虎を駿河国の今川氏のもとに追放しているが、『甲陽軍鑑』によれば、信繁は幼少期から信虎に寵愛され、信虎は嫡男である晴信(後の信玄)を廃して信繁に家督を譲ろうとしていたという逸話を記している。
また、文書上では確認されていないが、『高白斎記』に拠れば天文20年(1551年)2月1日に信繁は武田氏庶流の吉田氏を襲名したという[1]。
晴信期に武田氏は信濃侵攻を本格化させ、村上義清をはじめとする信濃国衆や越後国の上杉謙信との甲越対決が発生するが、晴信の家督相続時には姉婿の穴山信友とともに信繁は唯一御一門衆の中で成人とみなし得る立場にあり、晴信の補佐役として信濃経略に従事している。
『甲陽軍鑑』に拠れば、天文11年の諏訪侵攻において信繁は大将として宿老の板垣信方とともに諏訪出兵を主導し、同年9月の高遠頼継の反乱に際しても鎮圧の大将を務めたとしており、晴信からの勘気を受けた長坂虎房(光堅)は頼継弟の蓮芳斎を討ち取り、信繁が取次となり赦免されたという逸話を記している。諏訪を制圧した武田氏は信方を郡代とし、信繁にも諏訪衆を同心として付属させたという。[2]。天文13年には信虎の高野山参詣に際して宿坊となった引導院への礼状を発給しており、対外交渉への携わりも確認される。
天文20年(1551年)7月には村上攻めのため先衆として出陣しており(「恵林寺旧蔵文書」)、天文22年(1553年)4月には甲斐衆今井岩見守に対し落城した信濃国苅屋原城主任命を通達し、同じく4月には攻略した村上方の葛尾城に在城していた秋山虎繁(信友)に対しても上位を通達した他(ともに『高白斎記』)、恩賞の付与などを行っている。武田氏はやがて北信地域を巡り越後国の長尾景虎(上杉謙信)と抗争を繰り広げるが(川中島の戦い)、天文24年には景虎の越後帰陣を報告している。
武田氏は征服した信濃諸族に対し一族を養子にし懐柔させる方策を取っているが、信繁の子も信濃佐久郡の望月氏の養子となっている。
永禄4年(1561年)9月10日、第4次川中島の戦いで討死する。享年37[3]。
信繁は『武田法性院信玄公御代惣人数之事』『甲陽軍鑑』等における武田家臣団において、同母弟である信廉とともに武田姓の称号を免許される御一門衆に属し、信繁・信豊の武田典厩家は信廉の武田逍遥軒家とともに御一門衆の筆頭に位置する。信繁は武田領国内において城番として領域支配を行っていることが確認されず、基本的には甲府に在住して武田家の外交に参与し、合戦の際には信玄名代として軍事指揮権を発動し、先衆を統制する立場で出陣する立場であったと考えられている[4]。
人物
武田氏では晴信をはじめ一族には文人的業績を残している人物がいるが、信繁は天文17年には四辻季遠らが甲斐を訪れた際に和歌を詠んでいる。また、永禄元年(1558年)4月には、99箇条の家訓を作成し、嫡子長老(信豊)に対し与えている。これは序文を長禅寺住職の春国光新が撰文しており、内容も『論語』をはじめ中国古典から引用された箇所があり、信繁の教養を物語るものとして注目されている。
信玄は信繁の死体を抱くと号泣したと伝えられ、上杉謙信らからもその死は惜しまれたという。武田家臣団からも「惜しみても尚惜しむべし」と評され、もし信繁が生きていたら、信玄の長男・義信が謀反を起こすことはなかったといわれるほどである。山県昌景は「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したという(『甲陽軍鑑』)。真田昌幸は次男に「信繁」と名づけている。大坂の陣で有名になる真田幸村(この名前は信頼できる資料では確認できない)のことである。
江戸時代においても「まことの武将」との評価があるほど人気があり、嫡子武田信豊に残した99ヶ条にわたる『武田信繁家訓』(甲州法度之次第の原型)は、江戸時代の武士の心得として広く読み継がれており、江戸時代の儒学者である室鳩巣は「天文、永禄の間に至って賢と称すべき人あり。甲州武田信玄公の弟、古典厩信繁公なり」と賞賛している(『駿台雑話』)
脚注
- ↑ 信玄期には武田一族においても武田姓を免許される家は御一門衆においても限られており、信繁については吉田姓を襲名した記録が見られるものの文書上からは確認されず、信繁は御一門衆筆頭としての特別な立場にあったと考えられている(平山優「武田信玄の家臣団編成」『新編武田信玄のすべて』)。なお。同時期には晴信嫡男の義信が元服しており、信繁の吉田氏継承は武田宗家から外れ庶流家当主となることで義信の武田宗家後継者としての立場を明確にするための政治的配慮であった可能性も考えられている(丸島 2007)。
- ↑ 『甲陽軍鑑』における諏訪侵攻の経緯は年次の誤りを多く含み評価は慎重視されるが、高遠蓮芳斎の討取や虎房の活躍は『高白斎記』においても確認され、丸島和洋は信繁が甲信国境の武川衆を率いていることからも、諏訪侵攻において大将を務めていた可能性には一定の信憑性があると評している(丸島 2007)。
- ↑ 『勝山記』に拠る。第四次川中島の戦いについては文書・記録史料ともに少なく合戦の実情が不明であるが、信繁をはじめとする武田重臣の戦死から激戦であったと考えられており、近世に成立した『甲陽軍鑑』をはじめ江戸時代には様々な軍記物において合戦に関する虚実入り交じった逸話が流布するが、信繁の戦死については『上杉謙信申状』、『北越軍談』、『武辺咄聞書』などにおいて、かつての宿敵である村上義清の手によって討ち取られた、あるいは死の直前に討死を覚悟し春日源之丞に形見を託したなどの逸話を記している。
- ↑ 平山(2008)
参考文献
- 平山優「武田信繁」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年
- 平山優「武田信玄の家臣団」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年
- 丸島和洋「戦国大名武田氏の一門と領域支配」『戦国史研究』第53号、2007年