遊佐盛光
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遊佐 盛光(ゆさ もりみつ、生年不詳 - 天正9年6月27日(1581年7月27日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。能登畠山氏の家臣。遊佐続光の嫡男。仮名孫太郎。四郎右衛門尉。
生涯
初め主君・畠山義綱より偏諱を賜い遊佐綱光(- つなみつ)と称したが、永禄九年の政変で義綱が追放されると盛光と改めた。綱光時代の行動はほとんど知られていない。
元亀元年(1570年)に、畠山義慶の下、長綱連・温井景隆・平尭知らと共に年寄衆に任じられた。上杉氏との外交を担当するなど能登畠山家でも重要な地位にいたと考えられるが、家督を継いだ時期は不明で、盛光が成年に達して以後も父続光は重要な外交や政策を行っていた。
1577年、上杉謙信が七尾城を攻めてくると父と共にこれに内応するが、謙信が死去すると一転して織田氏に属している。しかし上杉氏に内応した罪を問われ、1581年に織田軍の侵攻を受けて菅屋長頼に捕らえられ、父と共に処刑された。