徳川継友
徳川 継友(とくがわ つぐとも、元禄5年2月8日(1692年3月25日) - 享保15年11月27日(1731年1月5日))は、江戸時代の第6代尾張藩主である。
経歴
第3代藩主・綱誠の十一男[1]、母は側室・林氏女(和泉)。正室は近衛家熙の娘・安己君(あこぎみ)。子は八三郎(夭折)、養女三千君(兄・徳川吉通の娘で継友の姪にあたる、九条幸教の正室となる)。幼名は八三郎。元服の後、兄で第4代藩主の吉通より偏諱を賜って通幸(みちゆき)、次いで通顕(みちあき)と改め、さらに将軍・徳川家継の偏諱を賜り継友と改める(「友」は祖父・光友から1字を取ったものである)。
正徳3年、兄・吉通、甥・五郎太の相次ぐ急死により6代藩主となる。長い間「お控え」として、結婚もできず捨扶持を与えられた生活から一躍浮上した嬉しさからか、五郎太が没した翌日に側近や家臣を招いて壮大な酒宴を開き、これはさすがに不謹慎であると御付け家老竹腰正武から諌められた[2]。
六代将軍徳川家宣は、継友(当時は通顕)の兄で尾張四代藩主であった徳川吉通を七代将軍にしようとした。吉通兄弟の父である尾張三代藩主徳川綱誠は、尾張二代藩主徳川光友と三代将軍家光の長女千代姫の実子であり、尾張徳川家は、もっとも将軍家に近い血筋でもあった。しかし、間部詮房や新井白石らの反対があり、家宣の実子で生き残っていた鍋松が七代将軍家継となる。尾張藩には「将軍位を争うべからず」という不文律もあった。[3] 。吉通が薨去し、七代将軍家継が危篤に陥ると、将軍候補は紀州徳川吉宗と、尾張徳川継友の二人に絞られた。継友は、吉通と同じく、将軍家に最も近い血筋であった。しかも、関白太政大臣近衛家煕の次女である安己姫と婚約していた。安己は大奥の実力者天英院近衛煕子の姪であり、姉近衛尚子は、中御門天皇の女御になることが決まっていた。間部詮房はじめ、家継の幕閣達は、継友を尾張藩の御連枝として従四位下左近衛権少将大隅守という官位を与えており、継友は大奥からも幕閣からも、そして朝廷からも推されているように見られていた。ところが、天英院は姪が嫁ごうとしている尾張徳川家の継友ではなく、紀州徳川家の吉宗を指名し、八代将軍は吉宗になってしまう。このとき、尾張の附家老であった成瀬正幸と竹腰正武など尾張の重臣たちは、「尾張は将軍位を争うべからず」に基づいて、積極的に継友の将軍位就任運動をしていなかった。唯一、間部詮房たちにより、異例の速さで従四位下侍従安房守となっていた継友の異母弟の松平通温は、兄継友の将軍位就任を望んでいた。[4] 。
継友は幼少より金銭を蓄積することに熱心、「性質短慮でケチ」と領民の評判は今ひとつで[5]、前述のように将軍位継承争いに敗れた後は、尾張大納言と尾張大根をかけて「切干大根」というあだ名があった(ただし、継友は大納言に任ぜられていない)。
また、伊勢神宮への参拝とその大麻札を将軍家に上程した日は、朝廷の制中であり[6] 、時を弁えていない行動も少なからずあった。
一方、綱誠の頃より、将軍綱吉の「御成費用」などで逼迫してきた藩財政の建て直しを図り、役職を整理したり、一族への給与の削減などをして(これらの処置が先述の批判につながる)[7] 、享保13年には金13,372両余、米27,815石余の黒字を残した[8] 。緊縮財政下にもかかわらず、名古屋の発展も著しく、江戸の豪商三井家越後屋が再びの出店をし、城下町人口も7万人を超えるに至った。これらが次代宗春の飛躍にもつながったのである。[9]
享保15年(1731年)に後継者がいないまま死去した。享年39。異母弟の松平主計頭通春(後の徳川宗春)が跡を継いだ。
官職位階履歴
- 正徳2年12月15日(1713年1月11日)、従四位下に叙せられ、左近衛権少将に任官。大隅守を兼任。松平の苗字を唱える。
- 正徳3年11月11日(1713年12月28日)、尾張国名古屋藩主となる。11月25日(1714年1月11日)、将軍徳川家継の一字を賜り、継友と改める。12月25日(2月9日)、従三位に昇叙し、左近衛権中将に転任し、右兵衛督を兼任。
- 正徳4年11月28日(1715年1月3日)、参議に補任。
- 正徳5年12月1日(1715年12月26日)、権中納言に転任。
- 享保15年11月27日(1731年1月5日)、薨去。法名:晃禪院殿博譽忍慈源曜、墓所:名古屋市東区筒井の徳興山建中寺。
家系
関連作品
脚注
テンプレート:尾張藩主- ↑ 一説に十二男、または十三男
- ↑ 朝日重章著『鸚鵡籠中記』正徳3年10月19日条。
- ↑ 『圓覺院様覚書二十五箇条』近松茂矩(吉通の側近)著
- ↑ 通温は、異母兄継友が将軍位に就けなかったことを恨み、酒食に溺れて名古屋城下の屋敷に押し込められてしまう。『尾張徳川家譜』『徳川実紀』等
- ↑ 『名古屋市史』
- ↑ 『徳川実紀』
- ↑ 御連枝川田久保友著に関してはすぐに旧に服させている。この明細には、何故か松平通春(徳川宗春)の記述が見られない。
- ↑ この数字は江戸時代後期の尾張藩勘定方のメモが典拠になっているが、継友が藩主の時に尾張藩の江戸上屋敷市谷邸および四谷邸が火災で全焼しており、中屋敷麹町邸の普請も重なり、幕府より二万両の下賜(『徳川実紀』)があり、実質は黒字ではなかった。これと同じ情報操作が八代藩主徳川宗勝でも行われている。宗勝の時代も尾張藩江戸上屋敷市谷邸が全焼しているにもかかわらず、黒字となっている。
- ↑ 継友に関しての評価は、本人の能力と言うよりも成瀬正幸・竹腰正武・石河正章などの家臣が優れていたおかげである。