小谷憲一
テンプレート:Infobox 漫画家 テンプレート:Sidebar with collapsible lists 小谷 憲一(こたに けんいち、2月10日[1] - )は、日本の漫画家。京都府宮津市出身[1]。血液型はAB型[1]。
経歴
京都府宮津市に生まれる[1]。小学生の頃までは漫画らしい絵を描く程度で、中学・高校の頃も漫画を時々読む程度であり、漫画執筆とはおよそ縁の遠い少年時代だった[1]。高校卒業後、絵を描くことが好きだったことから京都市のデザインスタジオに就職する[1]。しかし、スタジオの先生の指示に納得が行かず、従わない事がしばしばあった[1]。結果、19歳の時に先生と喧嘩になり「東京へ行って勉強して来い」と言われ、スタジオを追い出される[1]。
追い出された当初は漫画の道に進む事も考えていたが、親の反対と親戚が清水焼の職人をしていた事もあって、一時は陶芸の道に進む[1]。しかしどうしてもデザイン(描く仕事)がしたかった小谷は、全財産の8万円を持って東京へ飛び出す[1]。親の支援も無く、背水の陣の思いの中での決意だった[1]。
東京に出てきた当初は、銀座のクラブで働きながら漫画を描き、時に投稿などを行うという生活を送っていた[1]。そんな生活を送る中、22歳の時に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に掲載されていた手塚プロダクションのアシスタント募集の広告を目にし応募、採用されアシスタントの一員となる[1]。手塚プロには1年ほど在籍しており、小谷にとって実り多い時期であったが、「自分の目指す絵の方向性と異なるのではないか」という考えと、「保障された生活では甘えが出るため自分を追い込みたい」との考えにより手塚プロを離れ、再び銀座のクラブで働きながら、他の漫画家のアシスタントや漫画の投稿などを行う生活に戻る[1]。
編集者との縁もあって、23歳の時、『週刊少年ジャンプ』(集英社)1977年20号に読切作品「山犬狩り」が掲載されデビュー[1][2]。翌1978年には『週刊少年ジャンプ』37号に読切作品「黒獅子魂」を掲載[3]し、同年同誌43号から1979年2号まで掲載された『渡り教師』(原作:高山芳紀)での連載デビュー[3][4]を経て、『週刊少年ジャンプ』1979年31号より代表作『テニスボーイ』(原作:寺島優)の連載を始める[1]。以後、『週刊少年ジャンプ』や『月刊少年ジャンプ』、『スーパージャンプ』等の集英社の漫画雑誌を中心に執筆活動を続けている。
作品リスト
漫画作品
- 山犬狩り(週刊少年ジャンプ 1977年20号、読切)
- 黒獅子魂(週刊少年ジャンプ 1978年37号、読切)
- 渡り教師(原作:高山芳紀、週刊少年ジャンプ 1978年43号 - 1979年2号、全1巻)
- テニスボーイ(原作:寺島優、週刊少年ジャンプ 1979年31号 - 1982年9号、全14巻、JCS版全9巻、文庫版全9巻)
- ウイニング・ショット(原作:寺島優、週刊少年ジャンプ 1982年21号 - 1982年43号、全3巻)
- スキャンドール(週刊少年ジャンプ 1983年3号 - 1983年39号、全4巻、JSA版全3巻)
- KID(週刊少年ジャンプ 1984年22号 - 1984年40号、全2巻)
- ウルフにKISS(原作:寺島優、週刊少年ジャンプ 1985年39号 - 1985年51号、全2巻)
- 気ままにアイドル(コミックバーガー 創刊号(1986年11月) - 1990年、全7巻、ホーム社版全5巻)
- ホールドアップ☆キッズ(月刊少年ジャンプ、1986年 - 1990年、全11巻)
- 17ANS(スーパージャンプ 1990年10月号 - 1995年24号、全14巻)
- Doubles(月刊少年ジャンプ、1991年 - 1992年、全2巻)
- SHOW!(スーパージャンプ 1996年9号 - 1997年1号、全2巻)
- DESIRE(スーパージャンプ 1997年10号 - 2006年8号、全25巻)
- DESIRE 2nd season(スーパージャンプ 2006年17号 - 2010年5号、全7巻) ※月1回連載
- そして、僕は君に還る(スーパージャンプ 2010年10号 - 2011年1号、全2巻)
短編集などの書籍
- 小谷恵一短編集1 ショッキングMOMOKO(1991年9月、集英社、全1巻)
- 小谷憲一セレクション(1999年12月、集英社、全1巻)
- DESIRE-the best shot―KEN-ICHI KOTANI ILLUSTRATRAIONS(2001年12月、集英社、全1巻) - 『DESIRE』のイラスト集。
- DESIRE Premium Collection(2007年3月 - 7月、集英社、全5巻) - 『DESIRE』の傑作選。
アシスタント
- 浅田弘幸 - 2年半ほどアシスタントを務めた[5]テンプレート:出典無効。
- 柴山薫[6]
- 玉木美孝 - 浅田弘幸の紹介によりアシスタントを務めた[7]。
- 中嶋ちずな - 5年ほどアシスタントを務めた[8]。
出典
外部リンク
テンプレート:Manga-artist-stub- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 小谷憲一先生インタビュー/2009年2月号:日本漫画学院Webより。2011年5月13日閲覧。
- ↑ 1977年週刊少年ジャンプ 2011年5月13日閲覧。
- ↑ 3.0 3.1 1978年週刊少年ジャンプ 2011年5月13日閲覧。
- ↑ 1979年週刊少年ジャンプ 2011年5月13日閲覧。
- ↑ プランタンで浅田弘幸「テガミバチ」展、サイン会も - 銀座新聞ニュース、2011年5月13日閲覧。
- ↑ 柴山薫ファンサイト内に投稿された柴山薫自身によるコラムの中の「ライバル誕生」にて、小谷のアシスタントを務めていた事を明かしている。(2011年5月13日閲覧)
- ↑ 開発者インタビュー「Creators Note」 #17 玉木 美孝 2011年5月13日閲覧。
- ↑ 本人HP日記のインターネット・アーカイブ上の記録より。2008年1月5日付の日記にてアシスタントを務めていた事を明かしている。2011年5月13日閲覧。