我執
テンプレート:Sidebar 我執(がしゅう、テンプレート:Lang-sa、テンプレート:IASTアートマ・グラ-ハ)は自分に対する執着で、仏教ではその克服が重要な課題とされる。
意識ある生きものを有情(うじょう)といい衆生(しゅじょう)というが、その主体として、恒常・不変の自我(人我 ātman)が実在すると考えて執着することを言う。すべての存在に実体(法我)があると考える「法執」(dharma-grāha ダルマ・グラ-ハ)と対をなしている。この二つはそれぞれ「人我見(我見)」・「法我見」ともいう。後述の「人無我」「法無我」に対している。
我執には、人に生れつきそなわっている「倶生」(くしょう)と、後天的に教えこまれたり、考え出したりする「分別」によるものとの2種がある。唯識では、8種の認識作用(8識)を想定しており、倶生は第7の末那識(まなしき、manas)に、分別は第6の意識(mano-vijñāna)に属するとしている。
人我見・法我見
個人の主体としての自我(我 pudgala、ātman)が存在する、という誤った見解を「人我見」「我見」というのに対して、個人の構成要素および外界のあらゆるものに実体(自性 svabhaava、自相 svalakṣaṇa)を認める誤った見解を「法我見」という。
説一切有部の主張
小乗の諸学派は個体の中の自我は否定したが、それ以外の個体の構成要素および外界の物質的存在である法 (dharma) に実体があることを認めた。とくに説一切有部(せついっさいうぶ)は、伝統的な個人存在を構成する要素であった五蘊(ごうん)・十二処(じゅうにしょ)・十八界などに含まれる存在要素をさらに分析し整理し発展させて、「法」を五位七十五法と分析し体系づけ、あらゆるものに実体があると主張した。
大乗仏教の説
般若経を初めとするすべての大乗経典や龍樹などの大乗の哲学者たちは、これらの実体の存在を否定した。個我の否定を人無我(にんむが)といい、それ以外の実体の否定を法無我(ほうむが)という。