ピアノ五重奏曲 (シューベルト)
テンプレート:Portal クラシック音楽 ピアノ五重奏曲 イ長調は、シューベルトが1819年に作曲した作品である[1]。 ドイチュによるシューベルトの作品のドイチュ目録ではD667にあたる。 初演の時期は不明。楽譜は死の翌年の1829年に出版された [2]。
概要
この曲はシューベルトが22歳、まだ若々しく希望と幸福にあふれていた時期の名作として知られる。なおこれ以降には、シューベルトはピアノ五重奏曲を作曲していない。
第4楽章が歌曲『鱒』D550(5つの版のうちの第3稿と考えられている)の旋律による変奏曲であるために、『鱒』(ます、独: Die Forelle)という副題が付いた。先に作った歌曲が変奏曲であることとは別にこの作品(D667)の変奏曲もまた、水の中に現れては消える鱒のモチーフを与えている。シューベルトはこれをピアノ伴奏の中で使用した。
通常のピアノ五重奏の編成(ピアノ1台と弦楽四重奏)とは異なりシューベルトの作品ではピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロおよびコントラバスという編成がとられている。同じ編成によるピアノ五重奏曲はフンメルも2曲作曲しており、『鱒』は実際にはフンメルの作品を演奏する楽団のために書かれた。作曲時期から考えると、シューベルトが参考にしたのはフンメルの「五重奏曲」変ホ短調作品87(1822年出版)ではなく、「七重奏曲」ニ短調(編成: Pf、Fl、Ob、Hrn、Va、Vc、Cb)作品74のピアノ五重奏版(原曲と共に1816年頃出版)だと考えられている。
作曲を依頼したのは裕福な鉱山技師で、木管楽器とチェロの愛好家であったジルヴェルター・パウムガルトナーである。シューベルトが依頼を受けたのは1819年7月、29歳年上の友人ヨハン・ミハエル・フォーグル(1768年 - 1840年)とともに北オーストリアのシュタイアー地方を旅行で訪れた際のことであった。フォーグルは、後に歌曲集『冬の旅』を初演した名歌手として知られる。なおコントラバスを加えた編成にすることと、歌曲『鱒』の旋律に基づく変奏曲を加えることは、このパウムガルトナーからの依頼であったという[1]。自筆譜は不幸にも紛失しており、上記の作曲の過程については友人のアルベルト・シュタードラーの回想録と筆写譜などによる推測が主である。
また、この作品も生前には出版することが出来なかった。
構成
作品は、5つの楽章から構成される。
- アレグロ・ヴィヴァーチェ - イ長調。 この時代の多楽章作品における通例通り、ソナタ形式をとっている。しかし、サブドミナントのテーマ繰り返しをわずかに変えて第2主題への推移を不要にした。
- アンダンテ - ヘ長調、二部形式。複雑な転調が特徴。
- スケルツォ - プレスト、イ長調。トリオはニ長調。
- アンダンティーノ - アレグレット ニ長調。『鱒』による変奏曲。弦楽器のみにより主題が提示された後、6つの変奏が続く。第4変奏はニ短調、第5変奏は変ロ長調になる。第6変奏(明示はされていない)はコーダを兼ねている。
- アレグロ・ジュスト - イ長調、ソナタ形式。途中で第4楽章が変形されて回想される。
他の作品の旋律を用いた変奏曲で構成される楽章は弦楽四重奏曲第13番『ロザムンデ』、第14番『死と乙女』、『さすらい人幻想曲』などシューベルトの作品のいくつかで見られる。
難点
全曲を通して、ピアノパートは高音域での両手ユニゾンが多く、弾きにくい(第4楽章の第1変奏など)。このため、シューベルトがピアノの書法を高度に精通していなかった例として『魔王』などと共に引き合いに出されることがある [3]。
ただし、当時のピアノはウィーン式のシングルアクションであり、強弱の幅はそれほどでないがオクターブのグリッサンドも容易な程であった。また、クレメンティやチェルニーにもこの程度の難しさを要求する作品は同時代に作曲されており、シューベルトの作品だけが奇抜な難易度を誇っているわけではない。
備考
参考文献
外部リンク
- テンプレート:IMSLP2
- MP3 リンカーン・センター室内楽協会 (The Chamber Music Society of Lincoln Center) による全演奏、イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館より