ニューヨーク・ジャイアンツ
colspan="2" align="center" style="margin-left: inherit; font-size: 120%; background:#テンプレート:NFLColor;" | ニューヨーク・ジャイアンツ | |
1925年創設 | |
永久欠番 | 1, 4, 7, 11, 14, 16, 32, 40, 42, 50, 56 |
colspan="2" align="center" style="vertical-align: middle; テンプレート:NFLColorCell2;" |所属地区 | |
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colspan="2" align="center" style="vertical-align: middle; テンプレート:NFLColorCell;" |ホームタウン | |
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300px | |
colspan="2" align="center" style="vertical-align: middle; テンプレート:NFLColorCell2;" | チームデザイン | |
テンプレート:Color box 青 | |
ダークブルーで"ny"に赤の縁 | |
colspan="2" align="center" style="vertical-align: middle; テンプレート:NFLColorCell};" |獲得タイトル | |
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NFLイースタン: 1956、1958、1959、1961、1962、1963 | |
NFL東地区: 1933、1934、1935、1938、1939、1941、1944、1946 | |
1943、1950、1956、1958、1959、1961、1962、1963、1981、1984、1985、1993、2002、2006、2007 | |
colspan="2" align="center" style="vertical-align: middle; テンプレート:NFLColorCell2;" | 球団組織 | |
オーナー: ジョン・モーラ, スティーブ・ティッシュ | |
GM: ジェリー・リース | |
ヘッドコーチ: トム・コフリン(2004年~) |
ニューヨーク・ジャイアンツ (New York Giants) は、ニューヨークシティを起源とするアメリカンフットボールチームで、現在はニュージャージー州イーストラザフォードを本拠地としている。1925年にNFLに加盟した5チームのひとつである。同時に加盟したチームの中で唯一現存するチームである。NFC東地区に所属している。ジャイアンツの愛称は創設当時、ニューヨークにフランチャイズを置いていたメジャーリーグのニューヨーク・ジャイアンツから拝借。当初はニューヨーク・フットボール・ジャイアンツ(フットボールのニューヨーク・ジャイアンツ)というチーム名だった。現在でも、このチームを所有する企業体の名称である[1]。これまでにグリーンベイ・パッカーズの12回、シカゴ・ベアーズの9回に次ぐリーグ3番目の8回全米チャンピオンとなっておりスーパーボウルが創設される前の1927年、1934年、1938年、1956年の4回及び4回のスーパーボウル(第21回スーパーボウル、第25回スーパーボウル、第42回スーパーボウル、第46回スーパーボウル)で優勝している。プロフットボール殿堂入りした選手は15人おり、その中のメル・ハイン、フランク・ギフォード、チャーリー・コナリー、Y・A・ティトル、ローレンス・テイラーはシーズンMVPに輝いたことがある。チームは"Big Blue," the "G-Men," the "Big Blue Wrecking Crew," and the "Jints,"などの愛称で呼ばれている。
目次
歴史
創設から1963年まで
1925年にチームが創設された。この年8勝4敗と勝ち越した。NFLとAFLが統合する前に4回NFLチャンピオンとなっていたが1964年から1980年までは17シーズン連続でプレーオフ出場を逃した。加入して3年目の1927年に11勝1敗1分でNFLチャンピオンとなった。1928年シーズン終了後、デトロイト・ウルバリンズからスターQBのベニー・フリードマンを獲得した。1930年12月にはポロ・グラウンズでノートルダム大学オールスターと対戦した。1933年から1946年までの間、チームは8回NFLチャンピオンシップゲームに出場し2回優勝した。この時代チームはスティーブ・オーウェンヘッドコーチに率いられた。メル・ハイン、レッド・バジロ、タフィ・リーマンズに率いられた。1934年NFLチャンピオンシップゲームでシカゴ・ベアーズを凍ったフィールドで破った試合はスニーカー・ゲームズと呼ばれている。1938年NFLチャンピオンシップゲームではグリーンベイ・パッカーズを38-17で破り3回目の優勝を果たした。
その後チームはクォーターバックのフランク・ギフォード、ラインバッカーのサム・ハフ、オフェンスタックルのルーズベルト・ブラウンなどの殿堂入り選手、オールプロのランニングバックが在籍したものの1956年まで優勝できなかった。1956年NFLチャンピオンシップゲームにはこれらの選手たちは出場しなかったがジム・リー・ハウエルヘッドコーチのコーチングスタッフにはオフェンスにヴィンス・ロンバルディ、ディフェンスにトム・ランドリーの存在があった。1958年から1963年にも5回NFLチャンピオンシップゲームに出場したがいずれも敗れた。ボルチモア・コルツとオーバータイムの末に17-23で敗れた1958年NFLチャンピオンシップゲームは史上最高のゲームと呼ばれるようになった名試合でテレビ中継によりプロフットボール人気が確立された試合である[2]。1959年には第4Qに16-9とコルツをリードしながら16-31と逆転負けを喫した。1963年にはY・A・ティトルが36タッチダウンパスを投げてシーズンMVPとなったがチャンピオンシップゲームでは10-14でシカゴ・ベアーズに敗れた。
1964年から1978年まで
その後1964年から1978年までチームはわずか2回しか勝ち越せずプレーオフ進出からは遠ざかった。1964年には2勝10敗2分、1965年に7勝7敗と持ち直したが1966年には500失点以上を与え1勝12敗1分に終わった。1969年のプレシーズン、チームはニューヨーク・ジェッツとコネチカット州ニューヘイブンのイェールボウルで対戦、70,874人を集めた試合で14-37と敗れた。ウェリントン・マーラオーナーはアリー・シャーマンヘッドコーチをシーズン前に解任、元ジャイアンツのフルバック、アレックス・ウェブスターが新ヘッドコーチとなった。1967年にチームはミネソタ・バイキングスのQBフラン・ターケントンを獲得したが1967年の7勝7敗、1970年の9勝5敗を除き満足できるシーズンを送れず、1971年に4勝10敗に終わった後、ターケントンはバイキングスにトレードされた。ターケントンはその後バイキングスを3度スーパーボウルに導いた。1973年からの6シーズンでチームはわずか23勝しかできなかった。1974年には1勝5敗となったところでダラス・カウボーイズでロジャー・ストーバックとの先発争いに敗れ控えQBとなっていたクレイグ・モートンを獲得したが残り8試合でチームは1勝しかできず2勝12敗に終わりトレードで手放した全体2番目の指名権でカウボーイズは後にプロフットボール殿堂入りするランディ・ホワイトを指名した[3]。モートンはその後2年間先発QBとしてプレーしたがチームは1975年には5勝9敗、1976年には3勝11敗に留まった。
1976年にチームはロン・ジョンソンの代わりに後に殿堂入りするラリー・ゾンカを獲得したがジャイアンツに在籍した3シーズン、彼は故障もあり満足に働くことはできなかった。1977年にはロースターに新人QB3人が並ぶ事態となった。この時代ヤンキー・スタジアムの改修もありイェールボウルやシェイ・スタジアムで戦った。1976年にジャイアンツ・スタジアムが完成し本拠地を移した。1978年にはメドウランズの奇跡と呼ばれるようになったフィラデルフィア・イーグルス相手にニーダウンすれば確実に勝てた試合をランニングプレーを選択した結果、ボールをファンブルし、ハーマン・エドワーズにリターンタッチダウンをあげられ試合を落としている。1965年にジャック・マーラが亡くなって以来、ウェリントン・マーラとティム・マーラの間がうまくいっておらずコミッショナーのピート・ロゼールに仲介されるほどであった。
1977年にチームはモートンをデンバー・ブロンコスにトレードしスティーブ・ラムジーと翌年のドラフト5巡を手に入れたがいずれもジャイアンツでプレーすることはなく終わり逆にモートンはブロンコスを第12回スーパーボウル進出に導いた[4]。
1979年から1992年まで
1983年にレイ・パーキンスの後を継いでヘッドコーチとなったビル・パーセルズが就任するとチーム成績は向上し1986年シーズンには第21回スーパーボウルでデンバー・ブロンコスを破り優勝を果たした。
1990年シーズンはエースQBのフィル・シムズをシーズン途中に怪我で失い控えQBのジェフ・ホステトラーがシーズン終盤から先発することとなったが13勝3敗で地区優勝を果たした。そしてNFCチャンピオンシップゲームでスーパーボウル3連覇を狙うサンフランシスコ・フォーティナイナーズを相手にタッチダウンをあげられなかったもののマット・バーの5本のFGで15-13と破り、第25回スーパーボウルではバッファロー・ビルズに20-19と1点差での勝利で2度目のスーパーボウル優勝を果たしパーセルズは勇退した。後任のレイ・ハンドレーはホステトラーをエースQBに指名した。2年連続プレーオフ出場を果たすことができず1993年チームはデンバー・ブロンコスのヘッドコーチだったダン・リーブスと新ヘッドコーチとして契約した。
1993年以降
リーブスはシムズを再びエースQBに指名し、ホステトラーはオークランド・レイダーズに移籍した。1993年に年間最優秀コーチに選ばれる活躍を見せたがその後3シーズンはプレーオフ出場を果たせず1997年から2003年はジム・ファセルがヘッドコーチとなった。
2004年、トム・コフリンがヘッドコーチに就任した。この年、サンディエゴ・チャージャーズからドラフト全体トップで指名されたイーライ・マニングがチャージャーズへの入団を拒否、ジャイアンツは全体5番目に指名したフィリップ・リバースなどとトレードでマニングを獲得した。開幕当初はカート・ワーナーが先発QBを務めたが5勝4敗となったシーズン中盤からマニングが先発QBに昇格、しかしチームはその後1勝しかできず6勝10敗でシーズンを終えた。
コフリンが就任して2年目の2005年からチームは3年連続でプレーオフに進出し、2007年には10勝6敗で、ワイルドカードからのプレーオフ出場ながら、タンパベイ・バッカニアーズを24-14、ダラス・カウボーイズを21-17、氷点下18.3度(体感気温氷点下31.1度)の敵地ランボー・フィールドで行われたNFCチャンピオンシップゲームでグリーンベイ・パッカーズをオーバータイムの末、23-20で破り、7年ぶり4回目のスーパーボウル出場を果たした。第42回スーパーボウルでは、レギュラーシーズン16連勝を果たしたニューイングランド・ペイトリオッツを17-14で破り3度目のスーパーボウル優勝を果たした。2008年シーズンNFCトップの12勝4敗の成績をあげてホームフィールドアドバンテージを確保したがディビジョナル・プレーオフでフィラデルフィア・イーグルスに敗れてシーズンを終えた。
2009年、チームは開幕から5連勝したがニューオーリンズ・セインツに27-48で敗れた試合を含めて4連敗を喫した。最終的にチームは8勝8敗に終わりプレーオフを逃した。3年目のWRスティーブ・スミスがチーム記録となる107回のキャッチ、チーム歴代2位の1,220ヤードを獲得し7タッチダウンをあげた。最後の2試合で合計85失点を喫したこともあり、シーズン終了と共にビル・シェリダンディフェンスコーディネーターが解任されバッファロー・ビルズの暫定ヘッドコーチを務めていたペリー・フェウェルが就任した[5] 。
2010年、チームは10勝6敗の成績をあげたがプレーオフを逃した。第15週のフィラデルフィア・イーグルス戦では残り7分半で31-10とリードしていたが、21点差を守れず、31-31の同点に追いつかれ、試合終了間際アウトオブバーンズを狙うように新人パンターのマット・ドッジに指示したパントをデショーン・ジャクソンにリターンTDされて敗れている[6]。
2011年、6勝2敗と好スタートを切ったもののその後4連敗を喫した[7]。勝った方が地区優勝となるダラス・カウボーイズとの最終週の試合に勝利、9勝7敗で地区優勝を果たした[8]。ワイルドカードプレーオフで、アトランタ・ファルコンズを24-2と相手攻撃陣に得点を許さず(2失点はセイフティによる失点)[9]新スタジアムでのプレイオフ初勝利チームとなり、続くディビジョナルプレーオフではシーズン15勝1敗で前年スーパーボウルの覇者グリーンベイ・パッカーズを敵地で37-20と下し、勝ち上がる。そして雨天のNFCチャンピオンシップゲームにてサンフランシスコ・フォーティナイナーズとの延長戦を制して(20-17 OT)、4年前を彷彿とさせる快進撃で第46回スーパーボウルに駒を進めた。奇しくも4年前と同じ組み合わせとなった第46回スーパーボウルでは第1Qにセイフティと1TDで9-0とリード、第2Qに逆転TDパスを決められリードを許したが、第4Qに逆転し、ニューイングランド・ペイトリオッツを21-17で撃破、4度目のスーパーボウル王者に輝いた。MVPにはイーライ・マニングが4年前に続いて選ばれた。
2012年はシーズン前半を6勝2敗で折り返したものの、11月に入ると攻撃、守備ともに調子を落とし3勝5敗。特に12月の最終盤においては、第13週のワシントン・レッドスキンズとの同地区対決に敗れ[10]、第15週のアトランタ・ファルコンズ戦は無得点で敗戦するなど[11]、完全に失速。最終成績は9勝7敗だったが地区優勝はレッドスキンズにさらわれ、ワイルドカードによるプレイオフ出場も逃した。2011年に16.5サックを挙げ躍進したディフェンスエンドのジェイソン・ピエールポールは、このシーズンは6.5サックに終わった[12]。
ヘッドコーチ
- ボブ・フォルウェル(1925)
- ジョー・アレクサンダー(1926)
- アール・ポテイジャー(1927-1928)
- リロイ・アンドリュース(1929-1930)
- ベニー・フリードマン(1930)
- スティーブ・オーウェン(1931-1953)
- ジム・リー・ハウエル(1954-1960)
- アリー・シャーマン(1961-1968)
- アレックス・ウェブスター(1969-1973)
- ビル・アーンスパーガー(1974-1976)
- ジョン・マクベイ(1976-1978)
- レイ・パーキンス(1979-1982)
- ビル・パーセルズ(1983-1990)
- レイ・ハンドレー(1991-1992)
- ダン・リーブス(1993-1996)
- ジム・ファセル(1997-2003)
- トム・コフリン(2004-)
- Benny Friedman.jpg
ベニー・フリードマン
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トム・コフリン
主な選手
永久欠番
- 1 レイ・フラハーティ
- 4 タフィー・リーマンズ
- 7 メル・ハイン
- 11 フィル・シムズ
- 14 Y.A. ティトル
- 16 フランク・ギフォード
- 32 アル・ブロジス
- 40 ジョー・モリソン
- 42 チャーリー・コネリー
- 50 ケン・ストロング
- 56 ローレンス・テイラー
殿堂入り
- ルーズベルト・ブラウン T (1975)
- フランク・ギフォード HB (1977)
- タフィー・リーマンズ HB、FB (1978)
- レッド・バジロ E (1981)
- サム・ハフ LB (1982)
- アーノルド・ウェインメイスター DE (1984)
- トム・ランドリー コーチ (1990)
- ウェリントン・マーラ 共同オーナー (1997)
- スティーブ・オニール
- ケン・ストロング
- ローレンス・テイラー LB (1999)
- Y.A. ティトル
- エムレン・タネル