短甲
短甲(たんこう、みじかよろい[1])は古代日本で使用された鎧の形式名のひとつ。
奈良時代の文献に「短甲」という名称が記録されている事から、発掘された古墳時代の鎧に便宜的に名称があてられた結果、実際の名称は明らかではない古墳時代の「短甲」と形式が明らかではない奈良時代の短甲が混同される場合が多い。副葬品として出土する古墳時代の「短甲」の呼称は奈良時代の文献である『東大寺献物帳』(天平勝宝8歳・756年)や『延喜式』などの文献において「短甲」と「挂甲」の記述が見られるため、明治期の考古学や歴史学において歩兵用と騎馬兵用に対応するとして「短甲」の名称が当てられた。
弥生時代から古墳時代の短甲
主に古墳の副葬品として出土し、埴輪や石人にも着装した姿が見られる。九州から関東にかけて広い地域の古墳より遺物が出土しており、東北地方出土の埴輪にも見られることから、日本全土に普及していたと考えられる[2]。 朝鮮半島においても伽耶地域でのみ出土しているが、他の地域では発見されていない[3]。西洋の胸甲が大きな金属板を打ち出して作ったものであるのに対し、日本の短甲は枠に板を革紐で綴じたり鋲で留めて作られている。同時期に用いられた挂甲(けいこう)は、アジア大陸の騎馬民族に共通した型式で、中国北方の遊牧民の騎兵用の鎧の影響を色濃く受けたものであるが、短甲の外形と構成法は日本独特のものであると考えられる[2]。
木製・革製・鉄製のものがあり、原則として肩から腰の胴体を保護する胴甲であるが、腿部を防御する草摺(くさずり)や首を防御する頸鎧、上腕部を防御する肩鎧が取り外し式で付属している例もある。木片を繋ぎ合わせたり籐蔓を編んでつくられていたものが金属製に変化していったと考えられる[2]。 方形[4]や三角形[5]の鉄板や革などの素材を人間の胴体に合うように加工し、板を合わせて鋲で留め蝶番による開閉装置が施された[6]。両脇に蝶番を付けて前部が開閉するものや、右脇のみに蝶番を付けたもの、蝶番が無いものもあり開閉脱着の方式は一様でない[7]。腰部はくびれた形となっており、背部は大きく広がって独特の曲線を描いている。
現存するのは主に鉄製や金銅製のものであるが、有機質材料が併用されていた可能性が指摘されており、近年は弥生時代終末期の遺跡から木製や革製、植物繊維を編んで漆を塗ったものなどさまざまな有機質材料の短甲も出土している。 木製短甲は丸太の湾曲部を残して刳り貫いたものや、方形板を合わせて漆を塗ったもので、文様や着色などの装飾が施されているものもある。木製短甲は、背側と胸(胴部)側を別個につくり、紐で綴じ合わせる型式のもので、弥生時代後期の静岡県浜松市伊場遺跡の溝から出土し、古墳時代の実例は、奈良県橿原市坪井遺跡の前期の溝から出土している。前者の短甲はヤナギ材でつくられており、前胴に当たる部分と背当ての部分の2点が出土している。表面には同心円文や渦巻文、平行線文、羽状文、三角文などの文様が凸状に明瞭に刻まれている。さらに、それらの文様は赤色顔料や黒漆で塗り分けられている。材質が木製であることや呪術的な文様などから実戦用ではなく祭具用と考えられている。
古墳時代には鉄製短甲が出現し、横矧板鋲留が安定した形式として普及する。6世紀には出土遺物としては見られなくなり、挂甲(けいこう)に代わられている。
奈良時代の短甲
あくまで文献にのみ残る存在であり、実像は明らかではない。現時点での研究では以下の相違点から古墳時代の「短甲」とは全く関係がない鎧であると考えられている。
- 古墳時代の短甲が比較的面積の多い鉄板を鋲留した構造であるのに対して、奈良時代の物は比較的面積の少ない小札を綴じ合わせた構造となっている。
- 古墳時代の短甲は胴部及び兜のみの装備であるのに対して、奈良時代の短甲は様々なパーツが付属した皆具の鎧であると考えられる。
- 古墳時代の短甲は胴の全周を丸く全体に防御する形式であるのに対して、奈良時代の短甲は胴の前と後のみを防御する形式であった可能性が強い。
文献においては「短甲一領」が胴部のみのものを意味し、「短甲一具」が草摺や冑、肩甲、頸甲、篭手、脛当などの装備一式を意味するという説もある。
短甲の主な種類
- 方形板革綴短甲(ほうけいばんかわとじたんこう・古墳前期の日本で主流)
- 三角板革綴短甲 - 5世紀前半代を中心に制作された。
- 三角板鋲留短甲
- 竪矧革綴短甲
- 横矧板革綴短甲
- 横矧板鋲留短甲
短甲付属の冑として、
- 三角板革綴衝角付冑
- 竪矧板鋲留衝角付冑
- 小札鋲留眉庇付冑
出土例
備考
- 4世紀初めから中頃までの日本で普及していたのは、「方形板革綴短甲」であり、横矧板鋲留短甲の普及は4世紀末から5世紀にかけてである。この鋲留め技法は朝鮮半島で普及していた竪矧革綴短甲の鋲留め技法とは異なる。
- 短甲の鋲留技法は、多くの場合、2枚の鉄板の重ねであり、3枚重なった部位では意図的に鋲を配する事はさけられている。一方、石上神宮蔵の鉄盾は短甲と似た鋲留技法に見えるが、鉄板3枚を重ねた所にもあえて鋲留が行われており、技術的な自信を示している(当時の技術的問題から短甲は重ねが少ない)。冑の方は、鋲は外面では半球状に盛り上がっているが、裏面では鉄板から突出せずに平らに叩きならされている。
- 方形板革綴短甲から横矧板鋲留短甲は製作技法上の差異はあるが、基本的形態はほとんど変化しておらず、質的変化はない。しかし、横矧板鋲留短甲の出土量は1980年代の時点で方形板革綴短甲の十数倍にも達し、量的変化が見られ、「より多くの人間の武装を可能とした」[8]。
- 本州出土の短甲は450から60点あり、出土範囲は岩手から鹿児島に及ぶが、うち160(35%)以上が畿内から出土しているとされる[9]
脚注
- ↑ 『世界大百科事典 26 ヒャ-フョ』 平凡社、「武器」の項より。これに対し、挂甲の訓読みは、「かけよろい」、「うちかけのよろい」という。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 笹間良彦『日本甲冑大図鑑』
- ↑ 中西立太『日本甲冑史』
- ↑ 長方板革綴短甲は、4世紀後葉から5世紀中葉にかけて製作された。
- ↑ 三角板革綴短甲は、長方形の鉄板のかわりに三角形の鉄板を互い違いの向きに配置したもので、5世紀前半代を中心に制作された。
- ↑ この方法は5世紀の第2四半世紀に位置づけられている
- ↑ 短甲の胴部開閉方式が平安時代の大鎧に継承されているとする指摘もあるが、裲襠式挂甲から大鎧に発展したという説が有力である。
- ↑ 田中晋作 『武器の所有形態からみた古墳被葬者の性格』、石野博信 『古墳時代を考える』 雄山閣 2006年 ISBN 4-639-01932-7 p.21
- ↑ 集英社『倭人争乱 集英社版 日本の歴史 (2)』田中琢著 1991年 ISBN 978-4081950027 p322