高延宗
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高延宗(こう えんそう、544年 - 577年)は、北朝北斉の皇帝。ただし正史では即位は認められておらず、王号で安徳王(あんとくおう)と呼ばれる。高澄の息子で、兄に高長恭(蘭陵王)がいる。
略歴
父・高澄は高歓の長子であったが、暗殺されてその弟の高洋(文宣帝)が後継者となり、北斉を興した。延宗は叔父である高洋から寵愛を受け、安徳王に封ぜられた。
剛毅硬直な人物で、兄の高長恭が北周・突厥の連合軍を破って凱旋したときも、一人だけ「四兄様は戦いがおわかりでない。どうしてそのまま周を攻め取ってやらなかったのだ」と言ったが、兄が後主に毒殺されると激しく悲嘆したという。
高長恭と斛律光が粛清され、また陳に侵食されたのを契機に北周による侵攻が開始された。その中で祖廟を守るべく奮戦するも、北斉軍は壊走し状況が緊迫してきた。副都晋陽に北周軍が達するに及び、後主に対し徹底抗戦を主張したが、後主は全責任を安徳王に押し付けて逃走してしまう。そのため部下の将帥たちから皇帝として擁立され、北周の軍勢に対抗した。結局は北周に大敗し、晋陽は陥落、捕らわれの身になってしまう。
その後は北周で賓客として待遇されたが、それを甘受せず毒薬を仰ぐことが数度あった。後に高氏一族が誅滅された際に、殺されることを潔しとせず自殺した。
宗室
后妃
- 李妃
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