ルーブ・フォスター

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テンプレート:Infobox baseball player ルーブ・フォスター(Andrew Rube Foster 1878年(もしくは1879年9月17日 - 1930年12月9日)はアメリカ合衆国の元プロ野球選手投手)。現役時代は投手として、引退後には監督として、更に黒人野球界の実力者としてニグロリーグの設立に貢献した。弟ビル・フォスターも野球選手。

注:ニグロ・リーグ結成以前にも黒人プロ野球は存在していたが、組織だったものではなかった。

来歴

テキサス州カルヴァートにて生まれる。黒人野球チームで投手として大活躍し、キューバン・X・ジャイアンツに在籍していた1902年MLBのフィラデルフィア・アスレチックス(現オークランド・アスレチックス)とエキシビションで対戦。この時にルーブ・ワッデルに投げ勝ったことでルーブが愛称として使われるようになった(後に正式なミドルネームとしている)。また他の試合ではサイ・ヤングに投げ勝っており、これらメジャーでの伝説的投手たちに勝るとも劣らない投手であった。

1903年、フィラデルフィア・ジャイアンツとの黒人ワールドシリーズではチームの5勝の内4勝を挙げるなど大車輪の活躍をした。また、翌1904年にはシーズン51勝を挙げている。

1910年からリーランド・ジャイアンツの監督を務めるようになる。この年には123勝6敗という成績を挙げるが、オーナーとの間で対立が起こり、フォスターは球団を買い取ってシカゴ・アメリカン・ジャイアンツと改名し、自ら経営に乗り出した。監督業と同時に興行にも力を入れて、シカゴ・アメリカン・ジャイアンツはメジャーとも並ぶ人気球団となった。このチームは1910年代最強の黒人野球チームと言われている。

1920年、かねてよりの夢であった黒人野球リーグの設立を呼びかけ、8チームが参加したニグロナショナルリーグが誕生した。これに刺激を受けて東部ではイースタンカラードリーグも発足。1924年からは両リーグの勝者の間で黒人ワールドシリーズが行われるようになった(1927年まで)。

ニグロ・ナショナル・リーグとイースタン・カラード・リーグは仲が悪く、オーナーたちにはリーグ全体を引っ張っていく力が無くフォスター一人がリーグ全体を支えている形であった。フォスター自身に対してはほとんど無報酬であり、しかも経営難のチームには自腹を切って救済するなどひたすらフォスターはリーグのために奔走し続ける。

しかしあまりに過重な負担がかかったフォスターは1926年に精神を患い、1930年に死去。指導者を失った黒人野球リーグは大恐慌の影響もありいったん崩壊はするものの再び復活し、1930年代後半から1940年代前半にかけて全盛期を迎える。1981年アメリカ野球殿堂入りした。

出典・外部リンク

テンプレート:アメリカ野球殿堂表彰者 (監督)