内藤信興
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内藤 信興(ないとう のぶおき)は、越後村上藩の第3代藩主。第2代藩主・内藤信輝の次男。
経歴
享保5年、江戸で生まれる。父・信輝の死去により同10年(1725年)10月25日、6歳で遺領を継いだ。享保21年(1736年)1月28日、将軍徳川吉宗に御目見し、同年12月16日に従五位下紀伊守となる。同2年6月19日、はじめて村上に入部した。
宝暦11年(1761年)5月25日、子の信旭に家督を譲って隠居し、のち明和1年閏12月28日(1765年2月17日)に大膳亮と改めた。また同8年8月3日、剃髪して「昌山」と号したという(以上「寛政譜」新訂13巻203頁および『新編 藩翰譜』2巻所載系図、128頁)。
安永9年(1780年)5月5日、江戸で死去した。享年61。葬地は小石川の無量院(廃寺)。現在、墓所は新潟県村上市の天徳寺に移されている。
『村上郷土史』107頁には「表入用之儀追々相滞 甚差支候」「公務にも可相障 安心無之候」と、逼迫する江戸での財政状況を伝える書状が掲載されている(年次不明。同書では元文5年と推定)。
子女
「寛政譜」記載の子女は次の4男6女である。「越後村上 内藤家譜」からの記述を付加し、また『村上郷土史』所載系図の記述を括弧書きにした。
- 内藤信旭(長男)
- 女子:早世(「カナ」延享3年2月生まれ。母は側室。同月卒)
- 内藤信凭(次男)
- 阿部駿河守正賀の継室(「サダ」寛延3年3月生まれ。母は側室)
- 松平兵庫頭直行の継室(「ヒデ」改め「重」宝暦1年3月生まれ。母は奥平昌成の娘)
- 内藤頼尚(三男)
- 女子:早世(「艶」宝暦9年4月卒)
- 男子某:剛松(宝暦6年2月村上に生まれる。母は側室。同7年7月卒)
- 女子:早世(「トシ」宝暦12年5月生まれ。母は側室。同年7月卒)
- 女子:早世(「マサ」改「ヨシ」)
特記事項
- 生没年および享年は「寛政譜」および「藩翰譜続編」(『新編 藩翰譜』2巻104、105頁が続編部分である)の記述に拠った。いずれも安永9年5月5日に61歳で卒とし、従って享保5年生まれとなる。「寛政譜」は生年を明記している。
- 『村上郷土史』では享保8年3月21日生、安永9年5月5日卒、享年58(80頁)もしくは享保6年生、安永9年に60歳で卒したとする(103および116頁)。
- 法名・惇誉興仁道温は「寛政譜」の表記に拠るもの。『村上郷土史』は淳養誉興仁道温と記している(80頁)。
- 『村上郷土史』は生母を「側室の武笠氏」とするが、他の史料に所見がない。
出典
- 『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年
- 『新編 藩翰譜』2巻 新人物往来社、1977年
- 東京大学史料編纂所所蔵「越後村上 内藤家譜」(請求番号:4175-665)※東京大学史料編纂所データベースから検索・閲覧可能。
- 『村上郷土史』村上本町教育会、1931年
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