沼垂町

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テンプレート:Infobox 沼垂町(ぬったりまち)は、かつて新潟県中蒲原郡にあった町。1914年大正3年)新潟市と合併し、消滅した。かつての沼垂の中心部は現在の中央区東地区と、東区の山ノ下地区の区域にあたる。

概要

新潟町と共に信濃川河口に位置し、港町として栄えていた。市街地の中心部を流れる栗ノ木川(現栗ノ木バイパス)を挟んで東側の「東沼垂」には花街が形成され、芸妓がいたといわれている[1]

歴史

ファイル:Niigata map circa 1930.PNG
1930年頃の新潟市の地図。沼垂町が新潟市に編入合併してから約15年を経過した時点のもので、沼垂の市街地は信濃川右岸側に位置している。

1889年(明治22年)町制施行。1896年(明治29年)に新潟市との間に萬代橋が架橋された。

1897年(明治30年)北越鉄道(後の信越本線)の沼垂駅が開業し、終着駅となった。駅の開業にあたっては対岸の新潟市側の反発が強く、鉄道爆破事件を起こすほどであった。沼垂駅は1904年(明治37年)に鉄道が新潟駅まで延伸するまでの間、終着駅としての地位を保った。

明治以降も、前述の北越鉄道や新潟港の権益などをめぐり、新潟市と長らく対立を繰り返してきた沼垂町だが、萬代橋の開通以降は人的・物的交流が活発になり、相互間の生活圏は次第に一体化した。さらに1907年(明治40年)に沼垂町で大火が発生した際には、新潟市から萬代橋を経由して蒸気ポンプが消火応援に出動するなど、相互補完の関係も築かれた。1914年(大正3年)4月1日に新潟市に編入合併し、消滅。当時の面積は8.3km²。

行政区域の変遷

地域

沼垂町は、合併した村名を継承する以下の大字で構成される。

沼垂(ぬったり)
1889年(明治22年)まであった沼垂町の区域。
テンプレート:Visible anchor(かんばら)
1889年(明治22年)まであった蒲原村の区域。現在の新潟市中央区蒲原。
テンプレート:Visible anchor(ながみね)
1889年(明治22年)まであった長嶺新田の区域。現在の新潟市中央区長嶺町。
流作場(りゅうさくば)
1889年(明治22年)まであった流作場新田の区域。
テンプレート:Visible anchor(やまのした)
1898年(明治31年)まで松島村であった山ノ下新田の区域。山ノ下を参照。

出身人物

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ 注釈 テンプレート:Reflist 出典 テンプレート:Reflist

参考文献

関連項目

  1. 藤村、p.146