ジャパン (バンド)
ジャパン (Japan) は、イギリスのニュー・ウェーヴバンド。デヴィッド・シルヴィアンを中心に1974年結成。1982年解散。
歴史
デヴィッド・シルヴィアンとその弟スティーヴ・ジャンセン、デヴィッドの親友であったミック・カーンを中心に結成。カーンの兄の結婚式にバンドとして最初のお披露目をした。
当初はカーンをリードボーカルとして練習していたが、本番直前になって怖じ気づいたカーンが、シルヴィアンに無理矢理頼み込んでボーカルを代わってもらい、以降シルヴィアンがリードボーカルとなった。
その後高校の同級であったリチャード・バルビエリを誘い、更にオーディションでテンプレート:仮リンクを迎え入れ、デビュー当初のバンドの形態となった。
デビュー当初はアイドルとして宣伝されたグループだったが、英国の音楽シーンではほとんど人気が無かった。逆に日本では、初来日でいきなり武道館での公演を行うなど、ビッグ・イン・ジャパン的な持て囃され方をされていた。初期のサウンドは、主に黒人音楽やグラムロックをポスト・パンク的に再解釈した、ディスコティックながらぎくしゃくとしたノリをもった音楽性であり、そうしたフリーク的なアプローチを韜晦するようなひねくれたセンスや、ややダウナーな歌詞が特徴であった。
1979年のシングル「Life in Tokyo(ライフ・イン・トウキョウ)」(ジョルジオ・モロダーとの共作)を機にシンセポップ路線へ移行し、初期の荒削りなロックサウンドから次第に耽美的な音像を強めていく。3枚目のアルバム「Quiet Life(クワイエット・ライフ)」においては完全に初期のグラムロック/ファンク色を払拭し、一見ポップなサウンドのなかにカーンのうねるフレットレスベースやバルビエリの抽象的なシンセサウンド、ジャンセンの堅実で豊かなリズムアレンジ、そしてシルヴィアンの頽廃的で内省的なヴォーカルとリリックといった独特のアレンジを加えることで、他に類を見ない個性を確立(反面ギターサウンドの出番は大きく後退する)。この頃から本国でも評価を高め始める。
その後、アリオラ・レコードからヴァージン・レコードへ移籍し、「Gentlemen Take Polaroids(孤独な影)」と「Tin Drum(錻力の太鼓)」をリリース。この2作で、バンドはアフリカン・ビートや東洋音楽の意匠を取り入れ、独特のリズム解釈やグルーヴを追求。また、後年のメンバーの音楽性の萌芽といえるアプローチもあり、事実エスノ色とアンビエント色の入り混じった「Tin Drum」からのシングル「Ghosts(ゴウスツ)」はバンド最高のヒットを記録した。
なお、オリジナルメンバーのディーンが5作目の制作前に脱退したため、最後のツアーでは当時一風堂の土屋昌巳がサポートとして参加し、リードギターを担当した。
1991年には、解散時の4人でRain Tree Crow(レイン・トゥリー・クロウ)名義でアルバム「Rain Tree Crow」をリリースしたが、この一枚のみで終了。しかしその後も確執自体は存在しつつも(ミック・カーンの自伝参照)、メンバー同士で相互の作品に客演する機会を持つなど、ミック・カーンが死去するまで四人の間に一定の関係は保たれていた。
メンバー
- ボーカル:デヴィッド・シルヴィアン(David Sylvian)
- ベース:ミック・カーン(Mick Karn)
- ドラム:スティーヴ・ジャンセン(Steve Jansen)
- キーボード:リチャード・バルビエリ(Richard Barbieri)
- ギター:ロブ・ディーン(Rob Dean)…途中で脱退。
デヴィッド・シルヴィアン(本名:David Batt)とスティーヴ・ジャンセン(本名:Steve Batt)は兄弟である。
作品
- 『果てしなき反抗』 Adolescent Sex (1978年)
- 『苦悩の旋律』 Obscure Alternatives (1978年)
- 『クワイエット・ライフ』 Quiet Life (1979年)
- 『孤独な影』 Gentlemen Take Polaroids (1980年)※坂本龍一が8曲目に参加。
- 『錻力の太鼓』 Tin Drum (1981年)
- 『オイル・オン・キャンヴァス』 Oil On Canvas (1983年):ライヴアルバム。同内容のライブビデオ(VHS)が1992年にリリースされている。
エピソード
- シンコーミュージックより1983年に創刊された写真集、「JAPAN PHOTO STORY」によるとバンド名の由来に特に意味はなく、「なんとなくJAPANという響きが浮かんだだけ」とデヴィッド・シルヴィアンは述べている
- 原曲のクオリティを下げないようにライブでの再現性には気を配っていた。同上の「JAPAN PHOTO STORY」ではツアーの際、シルヴィアンが自ら機材の入念なチェックをする写真が収められている。ちなみにライブではシーケンサーは使用されず、演奏不可能なトラックはオープンリールのMTRを使い、ドラムのジャンセンがヘッドフォンでモニターしていた。
- 解散コンサートの日本公演最終場所は愛知県の名古屋市公会堂(当時)。1982年12月17日であった。
関連アーティスト
- レイン・トゥリー・クロウ (ディーンを除く実質上の再結成)
- ドルフィン・ブラザーズ (ジャンセンとバルビエリによるバンド)
- ナイン・ホーセス (シルヴィアン、ジャンセンとバーント・フリードマンによるバンド)
- JBK (ジャンセン、バルビエリ、カーンによるバンド)
外部リンク