佐竹義敦
佐竹 義敦(さたけ よしあつ、1748年11月24日(寛延元年閏10月4日)- 1785年7月6日(天明5年6月1日))は、出羽国久保田藩の第8代藩主。第7代藩主・佐竹義明の長男。母は第5代藩主・佐竹義峯の娘。初名は義直(よしなお)。幼名は秀丸。通称は次郎。官位は従四位下侍従、右京大夫。号は曙山(しょざん)。画家としても名高い。
生涯
文人大名
宝暦8年(1758年)5月11日、父・義明の死去により、家督を相続した。宝暦13年(1763年)2月15日、将軍徳川家治に御目見する。同年12月9日、従四位下侍従、右京大夫に叙任される。明和2年(1765年)4月15日、初めてお国入りの許可を得る。この頃の秋田藩では飢饉や農村の荒廃、佐竹騒動などにより藩政が混乱していたが、テンプレート:要出典範囲親交のあった土佐藩主山内豊雍、薩摩藩主島津重豪と合作の絵画も残っている。
当時、絵描きとしては最大の正統派と呼ばれた狩野派から絵を学んだ。狩野派の面々も、最初は大名のちょっとした趣味だろうとしか思っていなかったが、義敦の熱意は本気であった。そして藩士の小田野直武からも教えを受けて、日本画に西洋画を組み合わせた一代的な画法を作り出した。直武は、西洋画に対する趣味を持っており、平賀源内からもその作品を見て「秋田の片田舎に素晴らしい名手がいるものだ」と賞賛された。
西洋画論の執筆
義敦の命令により、源内の下で絵の修行に励んだ直武は、源内の友人であった杉田玄白の『解体新書』における付図の作画を行なった。そして秋田に帰国後、義敦と直武は「画法綱領」、「画図理解」などの西洋画論を著わした。これは、日本最初の西洋画論をまとめた著作であった。
義敦は、「松に唐鳥図」(重要文化財)、「燕子花にハサミ図」、「竹に文鳥図」、「湖山風景図」などの絵画のほか、膨大な数のスケッチを描き、それを『写生帖』にまとめている。
義敦と直武が創始した洋風画は、秋田派とも秋田蘭画とも呼ばれている。その作風は銅版画の影響が強く、近陰影がハッキリした画風が特徴とされている。
義敦は天明5年(1785年)、38歳で死去した。跡を長男の義和が継いだ。
正室は山内豊敷の娘・賀。子は長男・義和、娘・敦(島津斉宣正室)ら4男6女。
偏諱を与えた人物
義敦時代
関連文献
- 高階秀爾・武塙林太郎・養老孟司・芳賀徹・成瀬不二雄・河野元昭
- 成瀬不二雄『佐竹曙山 画ノ用タルヤ似タルヲ貴フ』
- ミネルヴァ日本評伝選:ミネルヴァ書房 2004年、ISBN 4623039684
- 土屋輝雄『蘭画大名 佐竹曙山』 東洋書院 1999年、ISBN 4885942810
- 三輪英夫『小田野直武と秋田蘭画 日本の美術第327号』 至文堂、1993年
- 伊藤武美『佐竹義敦と桂寿院―秋田蘭画の光と陰』 秋田文化出版、1991年