松川藩
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松川藩(まつかわはん)は、明治維新期の短期間、常陸国に存在した藩。藩庁は鹿島郡成田村(現在の茨城県東茨城郡大洗町成田町松川)[1]の松川陣屋に置かれた。
藩史
徳川頼房の四男で、徳川光圀の弟に当たる松平頼元が、光圀から2万石を分与されて額田藩を立藩した。頼元の死後、跡を継いだ松平頼貞のとき、領地を陸奥国守山藩に移されたため、頼貞は旧領を全て水戸藩に返還し、以後は守山藩として存続した。
守山藩は松平頼之のときである明治3年(1870年)、藩庁を守山から常陸国松川に移したため、ここに松川藩が立藩する。知藩事である頼之が江戸定府をやめ、任地に在住するにあたり、陸奥(磐城)と常陸の藩地のうち後者を居住地に選んだことによるが、藩地そのものは守山藩時代と同じである。翌明治4年(1871年)、陣屋の物置から出火し、強い北風に煽られて藩庁など大半を焼失し、十分な復興をみないままに廃藩置県で松川藩は廃藩となり、松川県が置かれた。その後、常陸国内の旧藩領は新治県を経て、明治8年(1875年)に茨城県に編入され、磐城国内の旧藩領は白河県・磐前県を経て福島県に編入された。
歴代藩主
- 松平(水戸)家
親藩 2万石
- 松平頼之(よりゆき)
廃藩直前の領地
脚注
- ↑ 成田村は1889年に鹿島郡夏海村の一部となった。夏海村は1955年に同郡旭村の一部となり、現在は鉾田市の一部となっているが、陣屋跡周辺を含む旧成田村の大部分は1955年に旭村から東茨城郡大洗町に編入された。したがって松川藩および松川県当時の所属は鹿島郡であり、このことから廃藩置県後の府県統合の際に新治県に統合されることとなった。
参考文献
- 遠藤教之・遠藤由紀子『シリーズ藩物語 守山藩』(現代書館)
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