メガフロート
メガフロート(Mega-Float)とは超大型浮体式構造物をさし、巨大人工浮島とも呼ばれる。
メガ=巨大、フロート=浮体を組み合わせた造語であり、従来の船舶と呼ばれるものより大型の人工浮体構造物を指す。
目次
構造
メガフロートの構造は、直方体形状の浮体ブロックを大量に生産し、つなぎ合わせて大型化したのち、固定した杭などに係留したものとなっている。各ブロックは主に造船所で建設されて建造現場へ曳航され、海洋上にて接合される。
通常の航空母艦や大型客船よりも安価に短期間で巨大構造物を造ることができるのが最大の利点である。
なおメガフロートは最終的には固定されるため、移動することが出来ない点で厳密には船舶とは異なる。ただしブロック毎に分解して移動することは可能。
概要
従来日本では海岸線を土砂で埋め立てたり、干拓を行ったりして土地を広げ、港湾施設、工場、住宅、空港、農地などの開発を行ってきた。しかしながら、このような開発を行うことで浅瀬、干潟が失われるため、近年では環境保護の観点から新規に開発を行うことが難しくなってきた。そのため、環境に与える影響が少ないと考えられる沖合を埋め立てる場合もあるが、この場合には埋立水深が深くなるために開発費用が膨大になる等の問題がある。さらには埋立には関西国際空港のように地盤沈下が避けられない。
そこで、沿岸開発の新たな手法として提案されているのがメガフロートである。
メガフロートの工法・技術開発を目的にメガフロート技術研究組合が設立され、1995年から3年間は基本技術開発を、1998年から3年間で実用レベルの技術開発(洋上滑走路を想定)が行われた。この成果は、その後財団法人日本造船技術センターに移管されている。実用実験時に作られたメガフロートは浮体の一部を切り出し、三重県南勢町/兵庫県南淡町/島根県西郷港/静岡県静岡市へ売却され、海釣り公園やフェリー桟橋に転用された[1]。
2011年、福島第一原子力発電所事故をうけて静岡市所有の浮体が東京電力に有償譲渡され[2]、改修のうえ福島第一原発まで曳航され、洋上の汚水貯蔵タンクとして設置された。水1万トンを貯蔵できるとされ[3]、低濃度汚染水の貯蔵に用いられた[4]。
利点
以下の利点がある。
- 用地が不要
- 水深や地盤に関係なく海域を利用可能
- 耐震性に優れている
- 工期が短い
- 移設が可能(将来、必要に応じて固定をはずし曳航移動させることはできる)
- 環境への影響が少ない(海流、水質汚染、設置工事に伴う環境への負荷等)
- 拡張が容易
- 形状変更が容易
- 内部空間が利用可能(例えば、駐車場、災害備蓄用スペース等として)
- 重量物設置が可能(追加補強工事が不要)
空港建設への利用
メガフロートは、特に洋上空港としての利用が期待されたため、数km規模、100年耐用を目指して1995年頃から開発が進められ、1996年には長さ300m、幅60m、深さ2mの実証浮体モデルがつくられ、2000年に住友重機械工業(現・住友重機械マリンエンジニアリング(株))主導のもと横須賀沖にて1000m級の実証浮体が建造され、実際にYS-11機等を用いた離着陸試験を行った。このときの結果を元にして、4000m級のメガフロートを建造し、空港に利用することが可能であると報告されている。特に、羽田空港の新滑走路設置に際して、在来の埋立工法をではなくメガフロート工法が採用されるかが注目された。工期や総工費、環境への影響など多様な観点から検討された。
しかし、結果として、主として以下の理由で採用されなかった。テンプレート:要出典(2004年08月に断念)
- 海洋土木と造船業とで技術のテリトリーに関する摩擦が存在している。
- 技術的には確立されているものの全く採用実績がない。
- 海洋土木業界(マリコン)とメガフロートを建造する造船業界など、いわゆる族議員も含めて、それぞれの業界の応援団がいるが、造船業界以外の業界の応援団が強力であった。
- 所管の国土交通省内部でも、造船業を所管する部署は発言力が強いとはいえなかった。
- 羽田の工法問題がピークに達する前に、大型タンカーの更新需要期が重なり、造船業界のメガフロート推進熱が冷めた。
- 造船所にとっては、メガフロートは言ってみれば「鉄の箱」であり、自社の技術力を格別誇れる案件ではなく、取り組む熱意が起きにくかった。
- 中国の開発ブームで鋼材価格が上昇した。
- 滑走路一本の建造が決まった場合、造船所一社では対応できず、国の指導のもと分割建造が想定されるが、そうなると、各社の船台がおさえられることになってしまい、新造船受注活動に支障をきたす。
こういった事情で、メガフロート空港の建造は日の目を見ておらず、実用化の目処はたっていない。
なお、こうした着想は古くからあり、たとえば「少年倶楽部」に1938年1月から12月にかけて連載された海野十三の少年向け軍事小説『浮かぶ飛行島』では、南シナ海に建造されつつあるメガフロート海上空港が舞台となっている。
軍事施設への利用
日本では、専ら滑走路機能を主体とする軍事用のメガフロートが、過去に何回か提案されたことがある。
米空母艦載機NLP訓練代替施設(関東近海案)
初期の事例としては1982年、厚木飛行場において米空母艦載機が夜間離着陸訓練(NLP,Night Landing Practice)を開始し、そのことで周辺住民より騒音被害の苦情が相次いだことから、対策としてメガフロートの活用が提案された。具体的には当時防衛庁長官だった伊藤宗一郎が定期防衛首脳会談のため、1982年9月に訪米した際、国防長官のキャスパー・ワインバーガーに提示したという。当時はまだメガフロートと言う言葉は一般的ではなく、新聞は「浮き滑走路」などと報じている。当時、米側は厚木や分散訓練先になっていた三沢飛行場などの代わりに新たな訓練地を希望しており、それに応えたものであった。
希望内容としてはパイロットの疲労軽減の観点から想定海域は米空母の母港となっていた横須賀海軍施設の近郊で、相模湾、東京湾などが挙げられている。また、米側の要求に応えるばかりでなく有事の際の日米協同の防空作戦を展開する上での役割が期待され、当時脅威となっていたバックファイアに対する邀撃訓練のための使用も検討していた。しかし、工費が莫大であることに加え、当時は緊縮財政によりシーリング予算を毎年編成していたことなどが挙げられ、具体化はすることなく、程なく陸上の移設候補地を探すことになる(三宅島、硫黄島、岩国飛行場、その他各地の自衛隊の飛行場などが検討され、後2箇所で実現した)[5]。
米空母艦載機NLP訓練代替施設(岩国飛行場沖合拡張案)
なお、岩国基地への空母艦載機部隊移転の関係で更なる沖合への滑走路新設が岩国商工会議所などにより構想されたことがある。この際の工法にはメガフロートが候補であり、事業費として4000~5000億円程度を想定している旨報じられた[6]。
普天間飛行場代替地としての検討
普天間基地移設問題では移設先としてメガフロートで造るべきだとの意見が何度も提案され、一部は埋立案や浮体桟橋(QIP)案などと公式の比較検討を実施している。ジェームズ・アワー元米国防総省日本部長のように「仮にメガフロート施設を造れば、普天間基地、那覇軍港、キャンプ・キンザー(牧港補給地区)の移設も可能だ」と言った高官の支持も見られる[7]。
また曳航・或いは自力航行などにより移動可能な浮体を建造することによって軍事上のメリットを重視する見方がある。このような発想はメガフロートと言う日本流の呼称はなされず、MOB(Mobile Offshore Base)と呼ばれており、米軍によって要素研究が続けられている。シー・ベイシング構想などで海上事前集積船隊に導入を検討する動きもある。軍事用途特有の問題点は攻撃に対する耐久性にある。滑走路に爆弾、ミサイル等の直撃を受けた場合、埋立を含む地上施設では埋め戻しと再舗装を行えば短期間で発着能力は回復できるが、基本的に鋼構造物であるメガフロートの場合はその保証は無く、MOB以外は被害を受けたモジュールの船渠への移動も困難性がある。このため、被害を出さないように戦闘機や対空火器による厳重な護衛の必要性が増す上、海中からの攻撃によるリスクも抱え込むことになる[8]。
辺野古移設の日米合意を覆し移転先を再検討することとなった鳩山由紀夫内閣においても2010年4月にポンツーン方式を前提としたメガフロート案が政府内で再浮上したが、キャンプ・シュワブ沖は波が荒く同方式では防波堤が必要で、費用も1兆円以上かかる見通しとなり見送られた[9]。
事件・事故
2002年1月に荒天のため、メガフロートが曳航中の韓国籍タグボートから外れ、三重県志摩町の海岸に漂着する事故があった。
脚注
- ↑ これまでの実績 財団法人日本造船技術センター
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 福島第1原発:収束いまだ見えず 事故から半年 毎日新聞 2011年9月9日
- ↑ 東日本大震災:福島第1原発事故 建屋の水、除染し敷地内に散水 「火災防止対策」 毎日新聞 2011年9月23日
- ↑ 「関東近海に米軍用"浮き滑走路"新設へ 伊藤防衛庁長官、米に提案へ」『日経新聞』1982年9月23日朝刊
- ↑ 「米軍NLP実施、岩国沖に「メガフロート」検討」『読売新聞』2005年8月28日
- ↑ ジェームズ・アワーの発言については「米軍再編とオキナワ・インタビュー」『沖縄タイムス』2004年9月20日
- ↑ 高井三郎「普天間海上基地実現の可能性 米軍のシー・ベース構想を検討する」『軍事研究』2010年8月
- ↑ 普天間移設、迷走の末の「現行計画回帰」? : 2010年4月25日 読売新聞