結城朝広
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結城 朝広(ゆうき ともひろ、建久元年(1190年) - 文永11年(1274年)?)は、鎌倉時代前・中期の武将。結城氏の第2代当主。初代当主、結城朝光の長男。母は伊賀朝光の娘。正室は安保実光の娘。
通称は結城七郎。承久3年(1221年)、承久の乱では幕府側に与して北陸道の大将として参戦し、越中における朝廷軍との戦いで戦功を挙げた。その功績により、兵衛尉・左衛門尉に任じられる。その後、検非違使となって京都の警護に功を挙げ、仁治3年(1242年)には正五位下、大蔵権少輔に任じられた。その後はそれまでの功績をもって幕政で重きを成し、結城氏の全盛期を創出した。
没年は詳しく分かっていないが、文永11年(1274年)を最後に史料から姿を消しているため、恐らくはこの年の前後に死去したものと思われる。
家督は子の結城広綱が継いだ。また、もう一人の子結城祐広は分家して白河結城氏の祖となった。他の子としては、関朝泰(藤姓関氏)、金山時広、平山信朝などがいる。