エルヴィン・ニレジハジ
生涯
両親共にユダヤ人で、本来の苗字はフリート(Fried)[1]。2歳で作曲を始めた。幼い頃からモーツァルトにも比すべき音楽的神童として注目を浴び、レーヴェース・ゲーザのいるアムステルダム心理学研究所から研究の題材にされた経歴の持ち主である。驚異的な暗譜能力があり、一度聴いた曲は何年経っても完璧に演奏する類まれな才能に恵まれていた。
しかし両親は彼を甘やかし放題に甘やかした。たとえば幼い頃、彼は食事の際に自らナイフやフォークを持ったことがなかった。使用人がナイフで切って口に運んでくれたからである。俗事に煩わされることがないように、との両親の配慮だった。
1910年、リスト音楽アカデミーに入学。レオ・ウェイネル他に理論を、イシュトヴァーン・トマーンにピアノを学ぶ。1914年、家族とともにベルリンに移住し、エルンスト・フォン・ドホナーニに師事。1915年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演しドイツにデビュー。1916年から、リストの直弟子フレデリック・ラモンドに師事した。1920年、17歳のときにカーネギー・ホールでデビュー。これは当時、カーネギー・ホールで演奏した芸術家としては史上最年少記録だった。 数年は演奏活動を行っていたが、音楽産業のペースに乗れず、楽壇から遠ざかり、ハリウッドで映画のピアニストをしていた時期もある。 1930年代から人目を避けるようになり、隠遁生活に突入した。音楽界にはびこる商業主義への嫌悪が昂じたためと言われている。
長ずるに及び、彼は自分の世話もできない大人に成り果てた。金銭管理能力の欠如が主たる原因である。貧窮のあまりピアノすら手離すことを余儀なくされ、しまいには路傍で寝る生活にまで落ちぶれた。彼は世間から忘れられてしまった。
ところが1970年代、妻の病気の治療費が必要になったため突然カーネギー・ホールに出現。みすぼらしい身なりの彼を、スタッフの誰もが汚い浮浪者と思ったが、「ピアノを弾かせてほしい」との懇願に負けて演奏させてみると完璧な演奏だったので一同唖然とした。ながいブランクにもかかわらず、彼の幼い頃からの音楽的才能は錆付いていなかったのである。こうして彼は75歳にして再び脚光を浴び、カーネギー・ホールでの復帰コンサートは大喝采を博した。 1978年春までに数枚のレコード録音を行なったが、その後、再び行方知れずとなった。 1980年、日本のファンが居場所を突き止め、1980年と1981年に来日し、演奏会を開いている。死後、彼の作曲した全作品(1000曲を超える)の楽譜が遺族によって高崎芸術短期大学に寄贈され、現在は同大学内の日本ニレジハジ協会によって校訂が進められている。
数々の奇行の持主。生涯に10回結婚したのもその一つである。