島津忠治
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島津 忠治(しまづ ただはる、1489年2月17日(長享3年1月17日) - 1515年10月2日(永正12年8月25日))は、室町時代後期の薩摩国の大名。島津氏の第12代当主。
生涯
長享3年(1489年)、島津氏第11代当主・島津忠昌の長男として誕生。幼名は安房丸。通称は又三郎。
永正5年(1508年)、父・忠昌が自殺したため、その跡を継いで当主となった。この頃の島津氏は、領国内で一族や国人らによる内乱をかかえていたが、忠治は温厚かつ学問好きの当主で、鹿児島に大興寺を建立したりするなど戦国の世と合わないことを多く行ったため、内乱はさらに促進された。
永正12年(1515年)、大隅国吉田城攻めのときに陣中で死去。享年27。墓所ははじめ吉田の津友寺であったが、後に鹿児島の福昌寺に改葬された。法名は蘭窓津友大禅定門。後を弟の島津忠隆が継いだ。