フマーユーン
フマーユーン(テンプレート:Lang-fa, Humāyūn, 1508年3月17日 - 1556年1月24日)は、北インド、ムガル帝国の第2代君主(在位:1530年- 1540年、1555年- 1556年)。
生涯
即位まで
初代皇帝のバーブルの長男。母マハムはバーブルに愛された皇妃だったという。
1530年にフマーユーンは病に倒れたとき、父バーブルはどうしたらよいかとお気に入りの相談役に意見を求めると、フマーユーンが助かるためには自分が持っている物の中で最も価値の高いものを捨てなければならないと言った。バーブルは自分こそが最も価値の高いものであるとして自ら息子の犠牲になろうと述べて祈りを唱え、フマーユーンの寝床の周りを3回歩いた。するとフマーユーンは病から回復し、バーブルが病に倒れて12月21日に死去した。このため、12月30日に跡を継いだ[1]。
内憂外患
父が死去したとき、フマーユーンは極めて不安定な地位にあった。フマーユーンの領土はジャウンプルからデリー、パンジャーブとインド北部の限られた地域のみしか支配力が及ばなかった。これはバーブルの死後、彼よりインド南西の地を任されていた弟のカームラーンが自立して皇位を狙い、またその下の弟であるヒンダール、アスカリーらもフマーユーンに対して表面上は忠誠を誓いながらも皇位を狙っていたからである。またバーブルが滅ぼしたローディー朝のイブラーヒーム・ローディーの弟であるマフムード・ローディーらのアフガン勢力が王朝再興を目指して行動し、インド南部でもグジャラートからアーグラに勢力を拡大していたバハードゥル・シャーの脅威が迫っていたためである[2]。
1531年、フマーユーンはラクノウ郊外でマフムード・ローディーの軍に勝利し、ビハールでスルターンを称していたシェール・ハーンを降伏させた。1535年にはインド南部のグジャラートとマールワーを制圧し、領土を倍増させた。フマーユーンには戦才があり、チャンパニールの城砦を攻めたときなどは自ら城壁を梯子で登るほど勇敢だったという。だが手に入れた新領土の支配体制の確立を怠って自らの快楽に溺れたため、アフガン勢力が力を回復して侵攻してくると、南からも反勢力が一斉に蜂起するという事態を招いた[3]。
また服属していたアフガン勢力のシェール・ハーンが次第に勢力を拡大したため、1537年にフマーユーンはシェールを攻めるために東方に進軍した。ところがこの東征は失敗。しかも実弟のヒンダールがデリーでスルタンを自称しようと企んだ。この企みはフマーユーンを支持する貴族の反対で失敗した[4]。
シェール・ハーンはジャウンプルとベナーレス(現在のヴァーラーナシー)からベンガルにかけて強力な同盟勢力を築き上げた。1539年、フマーユーンはベナーレス近郊のチャウサで敗北して逃走。12月にシェールは皇位に即位してシェール・シャーと名乗った。フマーユーンは1540年にアーグラとラクノウの中間にあるカナウジで敗北し、フマーユーンはインド北部から追い出されてラージプーターナーの砂漠地帯へと落ち延びた。こうしてムガル帝国は一時的に滅亡し、シェール・シャーのスール朝が成立した[5]。
亡命
フマーユーンはラージプーターナの砂漠で同じくシェール・シャーに追放された弟のヒンダールと共に兵を集めようとした。このときの1542年10月15日にハミーダと結婚してのちのアクバルが2人の間に生まれている。しかしハミーダを同じく愛していたヒンダールは兄に恨みを持ち[6]、兄のもとを去ってカンダハールで独立しようとした。
1543年、フマーユーンはハミーダや50人弱の側近を連れてシンドから逃亡。イランのサファヴィー朝のタフマースブ1世を頼って落ち延びた。タフマースブ1世はフマーユーンを手厚く歓迎し、互いに抱き合い、意気投合して親友のようになったという(ただしフマーユーンはスンナ派だったため、シーア派だったタフマースブ1世はフマーユーンを帰依させようとして対立したり、インド奪還の際にカンダハールを割譲するよう求めたりしている)[7]。
インド奪還
フマーユーンからインドを奪ったシェール・シャーは名君として後世に大きな影響を与える政治改革を行なった。このためスール朝は強盛であったが、1545年5月にシェールは不慮の事故死を遂げた。跡を継いだシェールの息子のイスラーム・シャーは父ほどの器が無く重臣を粛清したため、スール朝は急速に衰退した。フマーユーンはこのような状況を見て1545年3月にカンダハールを奪還。さらに11月にはカーブルも奪って弟のカーラムーンを追放して捕虜になっていた息子のアクバルを救出した[8]。以後の9年間はアフガニスタン東部の覇権をめぐって弟らと戦い、ヒンダールはカーラムーンに奇襲されて殺され、アスカリーは追放され、カーラムーンは盲目にされた[9]。
1554年にイスラーム・シャーが死去して12歳の息子であるフィールーズ・シャーが貴族によって擁立されると、1ヶ月も経たないうちに継承争いが起こってフィールーズは殺害され、スール朝は王族3名が争う事態となった[10]。フマーユーンインドへと戻り、7月にはスール朝を滅ぼして、デリーの王座を取り戻した。
最期
1556年1月24日夜、フマーユーンは図書館の屋上で金星が昇る時刻について占星術師と議論したあと、階段で降りようとした。そのとき、近くのモスクから礼拝の時刻を告げ、礼拝に呼びかけるムアッジンの声が聞こえたため、礼拝への召集が終わるまで腰を下ろして待とうとした(あるいは急いでモスクに向かおうとした)フマーユーンは、長い衣服の裾に足をとられて転げ落ち、石段で頭を打った。この事故が原因でおよそ2日後の27日に死去した[11]。49歳。
死後
息子のアクバルが跡を継いだが、アクバルは15歳という若さだったため、バイラム・ハーンバイラム・ハーンが摂政として統治した。だが同族争いやスール朝残党の抵抗もあって統治は安定しなかった。このため、1556年11月5日の第二次パーニーパットの戦いでスール朝残党を滅ぼしてムガル帝国の復興を成し遂げた。
アクバルは成長してから親政を開始し、大帝と呼ばれてムガル帝国の全盛期を築き上げる英主となる[12]。
人物
- フマーユーンがサファヴィー朝を頼った結果、ムガル絵画などインドの文化にペルシア文化が多く影響を受けることとなった[13]。
- フマーユーンは才能に恵まれていたがたくましさがなかったとされ、必要な行動は後回しにして宴会や享楽を優先し、享楽の中にはバラ水を使って小さな球状にした阿片を飲むことも含まれていたという[14]。またシェールが降伏したときに処断しなかったことが結果的には甘く王朝の滅亡を一時的にもたらしたし[15]、東征でシェールに敗れた際もベンガルで浮かれ騒いで過ごしたために事態の悪化を招いたという[16]。
脚注
参考文献
- 寺島昇『南アジア史』(山川出版社, 2004年3月)
- フランシス・ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』(小名康之監修, 創元社, 2009年5月)
外部リンク
テンプレート:ムガル帝国皇帝- ↑ 『ムガル帝国歴代誌』175頁・176頁・178頁。
- ↑ 『ムガル帝国歴代誌』178頁・179頁。
- ↑ 『ムガル帝国歴代誌』179頁。
- ↑ 『ムガル帝国歴代誌』180頁。
- ↑ 『南アジア史』235頁。『ムガル帝国歴代誌』180頁・181頁。
- ↑ ハミーダはヒンダールの信仰上の導師の娘だった。『ムガル帝国歴代誌』180頁。
- ↑ 『ムガル帝国歴代誌』182頁。
- ↑ 『南アジア史』235頁。
- ↑ 『ムガル帝国歴代誌』183頁。
- ↑ 『ムガル帝国歴代誌』181頁・183頁。
- ↑ 『南アジア史』235頁。『ムガル帝国歴代誌』183頁。
- ↑ 『南アジア史』236頁。『ムガル帝国歴代誌』186頁。
- ↑ 『ムガル帝国歴代誌』178頁。
- ↑ 『ムガル帝国歴代誌』17頁。
- ↑ 『ムガル帝国歴代誌』179頁。
- ↑ 『ムガル帝国歴代誌』180頁。