ワレンチナ・テレシコワ
テンプレート:Infobox Astronaut ワレンチナ・ヴラディミロヴナ・テレシコワ(テンプレート:Lang-ru、1937年3月6日 - )は、ソ連の宇宙飛行士。1963年6月16日にボストーク6号に搭乗し、女性として世界初の宇宙飛行を行った。
生い立ち
テレシコワはヤロスラヴリ州の小さな村、マスレンニコフに生まれた。学校を卒業後、通信制教育で学んだ後、織物工場で勤務した。彼女は、地元の航空クラブで22歳からスカイダイビングを行っていた。職場では旧ソ連共産党青年組織コムソモールのリーダーを務めていた。
宇宙飛行士への選抜
1962年、女性飛行士候補に選抜され、400人を超える候補の中から選抜された5人の1人となった。テレシコワ以外の4人はタチアナ・クズネツォワ、イリーナ・ソロウィオワ、ジャーンナ・ヨールキナ、ワレンチナ・ポノマレワである。宇宙飛行士に選抜されたことは、家族にさえ打ち明けることを禁じられていたため、家族がこの偉業を知ったのは、政府が全世界に向けて宇宙飛行を行った事を発表してからだった。
宇宙飛行
1963年6月16日、テレシコワはボストーク6号に単独搭乗して70時間50分で地球を48周する軌道飛行を行い、史上初の女性宇宙飛行士[1]、そして初の非軍人宇宙飛行士となった。
旧ソ連や現在のロシアでは、宇宙活動中の全ての飛行士が個人識別用のコールサインを付与され、テレシコワは「チャイカ」(Ча́йка、カモメ)が与えられた。打ち上げ後の"Я чайка"(ヤー・チャイカ、"こちら、チャイカ")という事務的な応答が女性宇宙飛行士の宇宙で発した最初の言葉となり、日本ではチェーホフの戯曲『かもめ』で用いられる同様の台詞「私はカモメ」と誤った結びつけで紹介され、ミッションの代名詞として広く知られた。
女性宇宙飛行士を搭乗させる計画はあったものの、2人目の女性宇宙飛行士であるスベトラーナ・サビツカヤが飛行するのは19年後となる。テレシコワと同時に選抜されたほかの4人は、誰一人として宇宙に旅立つことはなかった。テレシコワ自身が飛行中に相当なパニックを起こして問題となり、女性飛行士の採用が敬遠されたためとも言われるが、宇宙酔いという現象が余りまだよく理解されていなかったことが理由のひとつとも言われている。
宇宙飛行後の活動
飛行後、ジュコフスキー空軍大学に入学し、1969年に宇宙工学の単位を得て卒業した。同年に女性飛行士隊は解散される。1977年に工学で博士号を得る。1966年から1974年までソ連邦最高会議の一員であり、1974年から1989年まで同会議の常任幹部会の一員であった。また1969年から1991年まで党中央委員会の一員であった。1997年に大統領令により、空軍と宇宙飛行士隊から引退している。
1963年11月3日に同僚の宇宙飛行士であるアンドリアン・ニコラエフと結婚し、1964年に娘のエレナを産んでいる。政治的な結婚であったこともあり、1982年に離婚し、後に再婚している。2人目の夫であるシャポシュニコフ博士は、1999年に死去しており、現在は独身である。
1965年10月には日本社会党の招待により夫妻で来日している。
2011年12月4日に投開票されたロシアの下院選には、プーチン首相率いる政権与党統一ロシアから出馬・当選を果たす。ソ連邦最高会議時代以来、久々に政界に復帰することとなった。
脚注
参考文献
- 1998年8月31日 産経新聞朝刊『20世紀特派員』地球は青かった 第15回、長辻象平文化部編集委員の記事
- 女性初の宇宙飛行から50年、ソ連崩壊で明らかになった苦難のミッション 2013年06月17日 AFPBB News