楊醜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テンプレート:特殊文字 楊醜(よう しゅう、? - 198年?)は、中国後漢時代末期の武将。
正史の事跡
姓名 | 楊醜 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 198年(建安3年)? |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 将〔張楊〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 張楊 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
張楊配下。主君の張楊は同郷の誼から呂布と親友の仲にあり、建安3年(198年)に呂布が曹操の猛攻によって徐州で追いつめられたとき、張楊は呂布を救援しようとした。
建安3年(198年)11月[1]、楊醜は謀反して張楊を殺し、その首を曹操への手土産にしようとした。しかし、主君を殺されたことに怒った同僚の眭固によって、楊醜も殺されてしまった。没年は同3年、あるいは翌4年(199年)とも考えられる。
小説『三国志演義』では、曹操への情報伝達で名前が出るのみである。