紀元前426年
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テンプレート:Yearbox 紀元前426年は、ローマ暦の年である。当時は、「キンキナトゥス、アルビヌス、フスス、コッススが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元328年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前426年と表記されるのが一般的となった。
できごと
ギリシア
- アテナイの指導者クレオンと将軍デモステネスが、大商人で軍人でもあったニキアス (Nicias) やその支持者たちの反対を押し切って、アテナイの軍事力や艦隊の再強化に乗り出した。
- デモステネスはコリントスの植民地レウカス島(現在のレフカダ島)を攻略しようとしたが、失敗に終わった。失敗の責任を問われて、命が危うくなることを恐れたデモステネスは、アテナイには戻らなかった。しかし、この年遅くに、アンブラキア (Ambracia) がアカルナニア (Acarnania) に侵攻してくると、アカルナニアの人々は20隻のアテナイ艦隊を率いてイオニア海沿岸を哨戒していたデモステネスに助けを求め、デモステネスはコリンティアコス湾に面したナウパクトスのアテナイ艦隊の拠点に急行し、アンブラキア勢の支援のためにデルポイから移動してきたエウリュロコス (Eurylochus)率いるスパルタの大軍から、拠点を防衛することに成功した。このオルパエの戦い (Battle of Olpae) で、デモステネスはスパルタ軍を破り、エウリュロコスは討ち死にした。その後、アカルナニアとアンブラキアは講和条約に署名した。
- ニキアス、ヒッポニコス3世、エウリュメドン率いるアテナイ軍が、タナグラの戦い (紀元前426年)において、タナグラ (Tanagra) とテーバイの連合軍を破った。