プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus)は、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーによって1904年~1905年に著された論文。(研究者や学生はしばしば略してプロ倫と呼ぶ)
プロテスタントの世俗内禁欲が資本主義の「精神」に適合性を持っていたという、逆説的な論理を提出し、近代資本主義の成立を論じた。
論旨
オランダ、イギリス、アメリカなどカルヴィニズムの影響が強い国では、非合理性を持った合理主義によって資本主義(ここでいう資本主義とは近代資本主義のことである)が発達したが、一方で非合理性を持たない実践的合理性の顕著なイタリア、スペインのようなカトリック国や、他方でルター主義の非(実践)合理性の強いドイツでは、資本主義化が立ち遅れた。こうした現象は偶然ではなく、資本主義の「精神」とカルヴィニズムの間に因果関係があるとヴェーバーは考えた。ここでいう資本主義の「精神」とは、単なる拝金主義や利益の追求ではなく、合理的な経営・経済活動を非合理性のうちで支える精神あるいは行動様式(エートス)である。
ヴェーバーによると以下のようになる。
カルヴァンの予定説では、救済される人間は予め決定されており、人間の意志や努力、善行の有無などで、その決定を変更することはできない(つまり善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれない)。全知全能なる神の意思は人間には不可知なので、自分が救済されている選ばれた人間かどうか、予め知ることもできない。
予定説は、仏教などの因果論とは、まったく正反対の論理である。因果論においては「善行を働けば(因)救われる(果)」という、人間の神や仏に対する働きかけ(例えば寺院へのお布施や教会への寄付などの善行は、金によって神仏から救済を買う行為といえる)による救済が可能であるが、しかしそれはある意味、人間が神や仏を救済の手段や道具として使役し、人間の下位に置く発想であり、それは神の絶対性に対する冒涜である。そこでカルヴァン主義では神の絶対性を守るために予定説が採用されたのである。つまり予定説においては、神は人間の行為や意思や思惑に一切左右されることのない、人間の主として、絶対専制君主として、振舞うのである。
善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれないとなれば、人々は悪事を働きそうなものであるが、実際にはそうはならなかった。
キリスト教においては人生は一度きりである。仏教のように何度も生まれ変わる(輪廻転生)ということはない。死(第1の死)後に、再び肉体を与えられて臨む、最後の審判において、神によって救済される人間として選ばれなかった(予定説では「選ばれていなかった」)者は、さまざまな説があるが、ここでは完全に消滅するとする(第2の死)。そして救済や復活はもう二度とありえないのである。
しかし善行を働いても救われるわけではなく、予め救われているかどうか知ることもできず、もし選ばれていなかったら消滅し、もう二度と救済されない、という予定説の恐るべき論理は、人間に激しい精神的緊張を強い、そこから逃れるために、「神によって救われている人間ならば(因)、神の御心に適うことを行うはずだ(果)」という、因と果が逆転した論理を生み出し、一切の欲望や贅沢や浪費を禁じ、そちらへ向かうはずだった人生のエネルギーの全てを、信仰と労働(神が定めた職業、召命、天職、ベルーフ)のみに集中するという、禁欲的労働(世俗内禁欲、行動的禁欲、アクティブ・アスケーゼ)という精神・行動様式(エートス)を生み出したのである。
そうして人々は、世俗内において、信仰と労働に禁欲的に励むことによって、社会に貢献し、この世に神の栄光をあらわすことによって、ようやく自分が救われているという確信を持つことができるようになったのである。
しかし、この禁欲的プロテスタンティズムが与えた影響で大事なことはそれだけではなく、なにより「利潤の肯定」、「利潤の追求の正当化」、つまり金儲けに正当性を与えたことであった。
世界史的に、それまで金儲けというのは、善と悪どちらかといえば悪であり、少なくとも積極的に肯定されるものではなく、正当性を持たなかった。
そしてプロテスタンティズム、殊にカルヴァン主義は最も禁欲的であり、金儲けを悪として徹底的に否定する宗教のひとつであった。金儲けに正当性が与えられない社会では、当然金儲けは抑制され、近代資本主義社会へと発展することは無い。
しかし最初から利潤の追求を目的とするのではなく、行動的禁欲をもって天職に勤勉に励み、その「結果として」利潤を得るのであれば、その利潤は、安くて良質な商品やサービスを人々に提供したという、「隣人愛」の実践の結果であり、その労働が神の御心に適っている証であり、救済を確信させる証であるとする、ここでも因と果が逆転した論理を生み出したのであった。ここに最も金儲けに否定的な禁欲的な宗教が、それとは全く正反対の、金儲けを積極的に肯定する論理と近代資本主義を生み出したという、歴史の皮肉がある。
そして人々は「結果として」の利潤の追求に励むことになる。利潤の多寡は「隣人愛」の実践の証であり、救済を確信させる証であるから、より多ければ多いほど良いとされた。より多くの利潤を得るためには寸暇を惜しんで勤勉に労働しなければならない。そのため人々は時計を用い、自己の労働を時間で管理するエートスが成立した。このことを端的に示す諺が「時は金なり」である。スイスなどのプロテスタント圏で時計産業が発達したのは偶然ではない。
それまでの人類の労働の在り方は、南欧のカトリック圏(非プロテスタント圏)に見られるように、日が昇ると働き始め、仲間とおしゃべりなどをしながら適当に働き、昼には長い昼食時間をとり、午後には昼寝や間食の時間をとり(シエスタ)、日が沈むと仕事を終えるというような、実質的な労働時間は短く、おおらかで人間的ではあるが生産性の低いものであった。
こうしてプロテスタンティズムは、人類の中に眠っていた莫大な生産力を引き出したのであった。
また、サクラメントなどの、非合理な、呪術・魔術は、救済に一切関係がないので禁止され、合理的な精神を育てるようになった(呪術・魔術の園[ツァウバー・ガルテン]からの解放)。
節約(無駄を省くなどの支出の抑制)のために、収支を管理して合理的経営を行うのに不可欠な複式簿記の導入や、生産性を上げるために、科学的合理的精神に基づいた効率の良い生産方法の導入が図られた。
また、禁欲的労働によって蓄えられた金は、禁欲であるから消費によって浪費されることもなく貯蓄され(資本蓄積)、利潤追求のために再投資されることになった。これにより大規模産業を興すことが可能となった。
このように、プロテスタンティズムが生み出した勤勉の精神や合理主義は、近代的・合理的な資本主義の「精神」に適合しており、近代資本主義を誕生させたのであった(ヴェーバーは資本主義の「精神」を体現した人物としてベンジャミン・フランクリンを挙げている)。
こうして(結果的に)プロテスタンティズムの信仰が近代資本主義の誕生と発展に作用したが、近代化の進展とともに信仰が薄れてゆくと(世俗化)、元々が宗教的なものであったことが忘れ去られ、利潤追求自体が自己目的化するようになった。また、「内からの動機」に基づくものであった利潤追求が、「外圧的な動機」によるものに変貌していった。いったん成立した現代資本主義社会は、外圧的な動機付けによってそれに適合した人間と資本主義の精神を再生産しながら、それでも動き続ける。ただしそれは人々の内面的な動機によって支えられたものではないため、そこに現代資本主義社会の存続の危機があるのである。
現代社会に生きる我々は、知らず知らずの内に、無自覚に、宗教的な生き方を強制されている。現代社会で当たり前とされる我々の労働の在り方というのは、実は地理的歴史的に見れば、決して普遍的なものなどではなく、きわめて特殊な、地域的時代的宗教的なものなのである。
日本語訳
- 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫、同 ワイド版)
- 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』(梶山力訳、安藤英治編[1]、未來社)
- 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 (中山元訳、日経BPクラシックス、2010年)
脚注
- ↑ 梶山訳は戦前に刊行された、最初の日本語訳である。編者・安藤はウェーバ研究者で、詳細な校訂を行っている。