穂積八束
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穂積 八束 (ほづみ やつか、1860年3月20日(安政7年2月28日) - 1912年10月5日)は、日本の法学者。東京帝国大学法科大学長。貴族院議員。法典調査会査定委員。
民法典論争に際し発表した論文『民法出デテ忠孝亡ブ』で非常に有名である。また、日本法律学校(現在の日本大学)の設立に参画したことでも知られる。
人物
父・重樹は伊予伊達藩家老(維新後、鈴木姓から穂積姓に改名)。重樹の三男。長兄の重頴は第一銀行頭取。民法起草者の一人である穂積陳重は次兄。正三位勲一等。妻は浅野総一郎(初代)の長女まつ。
経歴
- 1860年(安政7年) - 伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)に宇和島藩士・鈴木重樹の子として生まれる。
- 1883年(明治16年) - 東京大学文学部政治学科卒業。東京大学文学部政治学研究生。
- 1884年(明治17年) - 文部省留学生としてドイツへ留学(欧州制度沿革史及び公法学修業)[1]。ハイデルベルク大学入学。
- 1885年(明治18年) - ベルリン大学に転学。
- 1886年(明治19年) - ストラスブルク大学に転学。
- 1887年(明治20年) - ライプツィヒ大学に戻る。
- 1889年(明治22年) - 帰国。帝国大学法科大学教授就任(憲法)。法制局参事官。日本法律学校(現在の日本大学)設立に参画。
- 1891年(明治24年) - 兼任枢密院書記官。法学博士。民法典論争に際し[2]、『民法出デテ忠孝亡ブ』(『法学新報』第五号)発表。
- 1897年(明治30年) - 東京帝国大学法科大学長就任。
- 1899年(明治32年) - 貴族院議員。
- 1906年(明治39年) - 帝国学士院会員。
- 1908年(明治41年) - 兼宮中顧問官。
- 1907年(明治42年) - 正四位。
- 1909年(明治44年) - 法科大学長を免ず。
- 1912年(大正元年) - 依願免本官。10月5日、逝去(52歳)。東京帝国大学名誉教授。勲一等瑞宝章。
系譜
∴ 饒速日命 ┃ : ┃ ┣━━━━┓ : ┃ ┃ 弟橘姫━━日本武尊 鈴木重麿 ┃ 穂積重樹 ┃ ┣━━━━┳━━━━┓ ┃ ┃ ┃ 穂積重頴 穂積陳重 穂積八束 ┃ ┏━━━━┳━━━━┻┳━━━━━┳━━━━━┳━━━┳━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 穂積重威 穂積秀二郎 穂積義三郎 穂積隆四郎 千鶴子 万亀子 寿賀子 ┃ ┣━━━━┳━━━━┳━━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ 穂積重憲 穂積英夫 穂積信夫 穂積忠夫
家族
- 妻:まつ(浅野総一郎(初代)の長女)。
- 長男:穂積重威 弁護士。妻は桜井小太郎の娘・安芸子。極東国際軍事裁判(東京裁判)において木戸幸一及び東郷茂徳の弁護人を務める(東郷については途中で西春彦に交代)。
- 次男:穂積秀二郎 元理研計器常務。妻は中村鋮太郎の娘・富美子。
- 三男:穂積義三郎 妻は野中万助の娘・とき。
- 四男:穂積隆四郎
- 長女:千鶴子 金子喜代太妻(東芝事務器会長)。
- 次女:万亀子 星野辰雄妻(元立教大学教授)。
- 三女:寿賀子 箕作新六妻(理学博士・東北帝国大学教授。元日本揮発油研究所長。父は箕作佳吉)。
著書
- 『大日本帝国憲法講義』全11冊(法律研究会、1889年(明治22年))
- 『法律及勅令ニ就テ』(安井秀真刊、1892年(明治25年))
- 『憲法大意』(八尾書店、1896年(明治29年))
- 『行政法大意』(八尾書店、1896年(明治29年))
- 『国民教育 愛国心』(八尾書店、1897年(明治30年))
- 『憲法提要』二冊(有斐閣、1910年-1911年(明治43年-明治44年))
- 『皇族講話会に於ける帝国憲法講義』(協同会、1912年(明治45年))
- 『国民道徳の要旨』(国民教科書共同販売所、1912年(明治45年))
- 『穂積八束博士論文集』(有斐閣、1913年(大正2年))(本書には、高橋作衛の手になる略伝・年譜が搭載されている)
参考文献
- 『穂積八束集』長尾龍一(信山社、2001年(平成13年))
脚注
- ↑ 明治17年官費留学生のメンバーは森林太郎、片山国嘉、丹波敬三、長與稱吉、田中正平、宮崎道三郎、隈川宗雄、萩原三圭、穂積八束、飯盛挺造、の10名、鴎外がこの10名を日東十客ノ歌を書いている。(鴎外留学始末、1999年、5項)
- ↑ 民法典論争は1889年5月の法学士会意見書に始まるものであり、八束が起こしたものではない(富井政章『訂正増補民法原論第一巻総論』第17版67頁(有斐閣書房、1922年)、穂積陳重『法窓夜話』97話)。
- ↑ 潮見俊隆・利谷信義編『日本の法学者』法学セミナー増刊99頁(長尾龍一執筆)(日本評論社、1974年)