劉賢 (呉王世子)
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劉 賢(りゅう けん、生没年不詳)は、前漢前期の皇族で、呉王劉濞の世子である。弟に劉子駒・劉子華がいる。
「劉賢」という姓名は『史記』呉王濞列伝にはなく、おもに『漢書』景帝紀と荊燕呉伝と爰盎晁錯列伝の注釈と『資治通鑑』が引く胡三省注によって記されている。
概要
その直後の宴会で皇太子劉啓(後の景帝)と酒を飲んで、双六で博打をした。呉の世子の近侍はほとんどが楚出身であり、軽薄で傲岸な態度を見せていた。さらに呉の世子も甘やかされていた。そのうちに博打の最中に皇太子の劉啓とサイコロの目をめぐって口論となり、呉の世子の不遜な態度に激怒した劉啓は双六の盤を持ちあげて、呉の世子に投げつけてしまい、劉賢は即死した。劉啓は劉賢の遺体を棺に収めて呉に送り返した。
息子の非業の死に激怒した劉濞は「天下はすべて劉家のものだ。長安で亡くなれば長安で埋葬すればよいのだ。なにゆえ呉に送り返して、葬儀を行う必要があろうか?」といって、再び長安に送り返して文帝は、劉賢の遺体を長安に埋葬した。
上記の事変以降から劉濞は入朝を拒否し、長安の中央政府と呉との関係が非常に険悪なものとなった。当時、即位に際して帝位を争った斉王家の扱いに苦慮していた文帝は、これ以上混乱の種を増やすのを嫌い、劉濞はすでに高齢であるから入朝は免除するとして、脇息と杖を与えて、このことを不問にした。しかし、この事件で劉濞が景帝を憎むことは甚だしく、景帝の治世に起こった呉楚七国の乱の一因となった。
参考資料
- 『史記』呉王濞列伝
- 『漢書』景帝紀 荊燕呉伝 爰盎晁錯列伝
- 『資治通鑑』ZH:刘贤 (吴国太子)