左慈
テンプレート:三国志の人物 左 慈(さ じ テンプレート:Zh2)は、中国後漢時代末期の方士。字は元放(テンプレート:Zh2)。揚州廬江の人。
正史では『後漢書』82巻方術列伝下[1]に伝記がある。そのほか『捜神記』『神仙伝』などに詳しい。
正史における左慈
左慈はかつて司空曹操の宴席に招かれ、曹操がふと「江東の松江の鱸があればなあ」と呟いた時、水をはった銅盤に糸を垂らして鱸を釣り上げてみせた。曹操は手を打って大笑いし、さらに「巴蜀の生姜がないのが残念だ」とこぼし、「使者に蜀の錦を買いに行かせたが、あと二反を買い足すように伝えておいてくれ」と言った。左慈はすぐに生姜を手にして帰ってきた。後日、使者が益州から帰ってきた時、左慈に会ったので錦を買い足したと証言した。
曹操が従者百人程を連れて近くまで出かけた折り、左慈は酒一升と干し肉一斤を携えてそれを配った。従者たちは皆酩酊し、満腹した。曹操が不思議に思って調べさせると、酒蔵から酒と干し肉がすっかり無くなっているとの事。曹操が腹を立てて左慈の逮捕を命じれば、左慈は壁の中に消えていく。市場でその姿を見たという者があったので追及させると、市場にいる人々が皆左慈と同じ姿であった。
陽城山の山頂で左慈に会ったとの証言を得たので、逮捕に向かわせると、左慈は羊の群れに逃げこんだ。曹操が「殺すつもりはない。君の術を試したかっただけだ」と伝えさせたところ、一頭の雄羊が二本足で立ち上がって人間の言葉で返事をした。皆で一斉に飛びかかると、数百頭の羊が皆立ち上がって人間の言葉を話したので、捕まえる事ができなかった。
『後漢書』方術列伝下、『三国志』裴松之の注に引用される曹丕の『典論』論郤儉等事、『全三國文』8巻論郤儉等事[2]、曹植の『弁道論』に記述あり、『弁道論』では、 テンプレート:Quotation テンプレート:Quotation 「世に方士(方術の士)あり。王(曹操)が招いた。甘陵の甘始、廬江の左慈、陽城の郄倹である。(甘)始は行気導引をし、(左)慈は房中術に通じ、(郄)倹は辟穀をした。皆300歳と号した。」とある。
三国志演義における左慈
小説『三国志演義』では、峨眉山で30年の修行の末、石壁の中から遁甲天書3巻(天巻・地巻・人巻)を手に入れ、方術が使えるようになったと描かれている。
左慈は、江東から華北に向けて蜜柑を運んでいた人々の前に現れ、荷物が重いと愚痴をこぼす声を聞けば、「ならば」と方術を使い、荷物を軽くする。後で曹操がその蜜柑の皮を剥くと中身は空で、果肉は一つも無いのだが、左慈が剥くと果汁が滴る程で果肉はあるのである。
この事で左慈の方術に興味を持った曹操は、左慈に飯を与えると酒5斗を飲んでも酔わず、羊を1頭を食べても食べ足らないばかりか、その席で曹操を翻弄し、引退して天下を劉備に譲れば遁甲天書を譲ると言ったため、これに怒った曹操により投獄させられてしまう。しかし何度拷問しても全然苦しむ様子もなく、呆れた執行人が後で様子を見に行くと鎖が外れている。それならばと今度は何日も食事を与えなかったが、逆に生き生きとしていくのである。
その後も曹操により投獄され続けられるが、ある日、曹操が開いた宴に突如として現れて、巴蜀の地方で手に入る酒・肉を持ち込み、鱸を絵に描いただけで取り出し、簪で杯の酒を二つに割って飲み、さらに燃やした筈の孟徳新書を出して見せるという事をする。そして杯を宙に投げると一羽の鶴になって、左慈はいつの間にか姿を消してしまうのである。
このため曹操は許褚に命じて逃げた左慈を追跡させる。程なくして許褚は歩いている左慈を発見するが、追いつこうとしても一向に距離が縮まる事はなく、全く追いつけない。やがて左慈は羊の群れの中に紛れ込んだが、どれだけ探しても左慈の姿が発見できなかったので、許褚は羊を皆殺しにする。その光景を見ていた羊飼いの牧童が泣いていると、「首と胴を元に戻せ」と左慈の声が聞こえたため、牧童がその様にすると羊は全て生き返り、平然と動き出すのである。
この報告を受けた曹操は似顔絵を撒いて左慈を探させ、発見次第首を刎ねようと考える。左慈はすぐに発見されるが、同じ顔の左慈が引き出される事2・300人にも上ってしまったため、曹操は全員の首を刎ねさせる。すると斬られた首が青い煙となって昇って、瞬く間に左慈の姿となり、左慈は白鶴を呼び寄せその背中に乗り、曹操の死を予言して何処かへと去ってしまうのである。そして激しい突風が吹くと、首を刎ねられた死体が一斉に曹操に襲い掛かり、曹操は昏倒して病に伏す事となる。