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韓玄
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<!-- この記事を編集するときには、表の部分を飛ばして、その後をご覧ください。 --> '''韓 玄'''(かん げん、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]時代末期の政治家、武将。 == 正史の事跡 == {| class="wikitable" style="float:right; font-size:smaller" |- ! 姓名 | 韓玄 |- ! 時代 | [[後漢]]時代 |- ! 生没年 | 〔不詳〕 |- ! 字・別号 | 〔不詳〕 |- ! 出身地 | 〔不詳〕 |- ! 職官 | 長沙太守 |- ! 爵位・号等 | - |- ! 陣営・所属等 | [[曹操]] |- ! 家族・一族 | 〔不詳〕 |} [[三国志 (歴史書)|正史]]においては、[[曹操]]が[[荊州]]を制圧したときの[[長沙]][[太守]]であり(『三国志』蜀書[[黄忠]]伝)、後に[[金旋]]・[[劉度]]らと共に[[劉備]]の軍勢に降伏した(『三国志』蜀書先主伝)という記述しかない。これ以降、史書に記述がないため、生死を含め韓玄の動向は不明である。一方で、韓玄の指揮下にあった黄忠は、その後劉備陣営の主力武将として大いに活躍した。 『中国文物地図集』湖南分冊によれば、長沙市天心区の長郡中学校の体育場敷地内に韓玄の墓が残る。現在は2.4m×1.7mのレンガで囲まれた塚のみで、[[1983年]]に「漢忠臣韓玄之墓」との墓碑が建てられた。但し韓玄を忠臣とする根拠は明らかでない。省級文物保護単位。[[清]]の[[:zh:汪應銓|汪応銓]]の『韓玄墓記』によれば、清代には韓玄は[[祟り神]]だと考えられていたようであり、怪異をなしたり、墓周辺の穢れの気を人に触れさせることが多かったとある。 == 三国志演義での韓玄 == 小説『[[三国志演義]]』では、生まれつき気が短く妄りに人を殺すので、恨みを買う人物として描写されている。また、[[魏 (三国)|魏]]に仕えた[[韓浩]]の兄としているが、正史にはそのような記述は無い。 荊州平定をめざす劉備軍の[[関羽]]が長沙に攻め寄せて来ると、韓玄はこれに抵抗するため、部将の黄忠らに迎撃を命じる。しかし、黄忠と関羽の一騎打ちでのやり取り(詳細は「[[黄忠#三国志演義での活躍]]」を参照)を目撃した韓玄は、黄忠が関羽と内通しているのではないかと猜疑する。このため、ついに韓玄は黄忠を処刑しようとしたが、その直前に客将の[[魏延]]が黄忠を救おうと民衆を煽動して反乱を起こしたため、逆に韓玄が殺害されてしまうことになっている。その後、韓玄の遺体は黄忠により長沙城外に手厚く葬られている。 なお、[[横山光輝]]の『[[三国志 (横山光輝)|三国志]]』では、悪代官風の姿で登場し、暴政を振るっていたように描かれている。 == 参考文献 == *<span style="font-size:90%;">『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀書2先主伝 *同蜀書6黄忠伝 *『[[三国志演義|三国演義]]』</span> [[Category:三国志の登場人物|かん けん]]
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