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[[Image:谷口藹山-貫名海屋自賛肖像(部分).jpg|thumb|150px|貫名海屋自賛肖像(部分) 谷口藹山筆]] [[Image:Landscape by Nukina Kaioku.jpg|thumb|250px|山水図(雲仙秋景図) 紙本淡彩]] '''貫名菘翁'''(ぬきな すうおう、[[安永]]7年3月([[1778年]]) - [[文久]]3年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]([[1863年]][[6月21日]]))は[[江戸時代]]後期の[[儒学者]]、[[書家]]、[[文人画|文人画家]]。とりわけ書は[[幕末の三筆]]として称揚される。 姓は吉井、後に家祖の旧姓貫名に復する。[[名前|名]]は直知・直友・苞(しげる)。[[字]]は君茂(くんも)・子善。[[通称]]は政三郎、のちに省吾さらに泰次郎と改める。[[号 (称号)|号]]は海仙・林屋・海客・海屋・海屋生・海叟・摘菘人・摘菘翁・菘翁・鴨干漁夫など多数。室号に勝春園・方竹園・須静堂・須静書堂・三緘堂。笑青園などと名のっている。'''海屋'''・'''菘翁'''が一般に知られている。 == 生涯 == [[徳島藩]]士で[[小笠原流]]礼式家の[[吉井直好]]の二男として[[徳島城]]下に生まれる。母は藩の[[御用絵師]][[矢野常博]]の娘。 === 学問 === はじめ[[木村蘭皐]]、[[高橋赤水]]に就いて[[儒学]]を学んだ。17歳の頃、母方の叔父[[霊瑞]]を頼って[[高野山]]に登り学問に励み、山内の図書を貪り読んだと伝えられる。 その後22歳で、[[大坂]]の[[懐徳堂]]に入門<ref>高野山にいた期間に疑問があり浪華に入った時期はもっと後年である可能性がある。その場合、浪華滞在期間が短すぎることから懐徳堂に入っていないことも考えられる(書論17号 菘翁年譜)。</ref>し、[[中井竹山]]の下で[[経学]]や[[史学]]を学び、やがて塾頭となった。 文化8年頃、[[京都]]に移ると[[私塾]]'''須静堂'''を開き[[朱子学]]を中心に教えた。 菘翁は自らの本分は学問にあると述べており、事実それによって生計を立てていた。 [[馮李華]]、[[陸浩]]が編纂した『[[左繍]]』、[[清]]の[[趙翼]]『[[二十二史箚記]]』などを[[翻刻]]している。 晩年は[[聖護院]]付近に移り住み、名産の野菜・菘(スズナ、[[蕪]]の[[古名]])に因んで菘翁と号した。最晩年になって下賀茂に隠居した。[[下賀茂神社]]に自らの蔵書を奉納したときの目録である「'''蓼倉文庫蔵書目録'''」には[[経学]]・[[史学]]を中心に3,386部(11,252巻)が記され、菘翁が学問を重視していた姿勢が窺われる。 === 詩 === [[Image:Nukina Sūō Old Pine Tree ink and light-color on paper hanging scroll The Shiga prefecture Lake Biwa Culture Center.jpg|thumb|left|300px|老松図 1841年 紙本墨画淡彩 [[滋賀県立琵琶湖文化館]]]] [[矢上快雨]]に詩文を学んでいる。45歳の頃に発刊されている文政5年版の「平安人物志」には儒者・[[漢詩|詩人]]として紹介されている。[[唐詩]]を好み、[[頼山陽]]と[[声律]]を論じたことは有名である。当時は絶句が流行しており、菘翁の漢詩は『文政十七家絶句』などの多くの絶句集に掲載された。『須静堂詩集』があったとされるが、なぜか現在に伝わっていない。俗説によると[[中島棕隠]]が菘翁の漢詩があまり上手でないのを見かねて刊行を制止したとする説があるが、はっきりしない。 「増註聯珠詩格」や[[徐文弼]]の「詩法簒要」を校刊し門弟の参考書とした。 === 書 === 少年期、[[西宣行]]に[[米元章]]の書風を学んだ。 高野山では[[空海]]の[[真蹟]]に強く啓発される。その後も空海の書を敬慕し続けており、58歳のとき[[四国]]に渡り[[萩原寺]](現[[香川県]][[観音寺市]]大野原町萩原)に滞在して秘蔵される伝空海「[[急就章]]」([[重要文化財]])を[[臨模]]している。後に墨拓としてこれを刊行しその[[跋]]を書いている。この跋には、空海の書は[[東寺]]にある有名な「[[風信帖]]」とこの「急就章」がもっともよいとし、その源流を[[奈良時代]]の[[魚養]]に求め、さらに魚養は唐[[写経]]に由来すると述べている。 当時の墨帖は粗末なものが多く到底手習いの元とすることはできなかった。菘翁は二王([[王羲之]]・[[王献之]])の正しい伝統を確実に把握することに努めた。このため古典や真蹟を重んじ、それが適わなければ[[法帖]]や碑版を蒐集し臨模をして学びとった。唐代の[[鄭審則]]の書についても、わざわざ[[比叡山]]に登ってこれを臨模している。 書風は当時流行の[[明]][[清]]風の[[唐様]]に対して[[唐]][[晋 (王朝)|晋]]風とされ、[[楷書]]は[[欧陽詢]]、[[虞世南]]、[[褚遂良]]、[[顔真卿]]に、[[行書]]は[[王羲之]]、[[褚遂良]]、[[草書]]は[[孫過庭]]に影響されたとされている。[[日下部鳴鶴]]は菘翁が晩年なるほど筆力が強くなっていると驚嘆している。 書画で盛名をほしいままにしたが、特に書は[[市河米庵]]・[[巻菱湖]]と並んで[[三筆#幕末の三筆|幕末の三筆]]に数えられ「近世第一の能書家」と称えられた。 最晩年 85歳の時に[[中風]]で倒れるが挫けず、筆を握り続け書画の制作に打ち込む。このときの作品を「中風様」と呼び、傑作とされる。 === 画 === 画は母方の祖父[[矢野典博]]<ref>[[狩野典信]]に師事</ref>に[[狩野派]]の画法を学んだが、徳島城下[[二軒屋町]]の[[観潮院 (徳島市)|観潮院]]において明の[[銭穀]]の「真景山水図十五幅」を観て以来、文人画に傾倒する。長じた後に大坂では[[鼎春岳]]、[[濱田杏堂]]、京都では[[浦上春琴]]、[[中林竹洞]]、[[山本梅逸]]ら、当時一流の文人画家と親しく交流するうち[[文人画]]の技法を修得したものと推察される。[[還暦]]を目前に[[長崎]]では[[祖門鉄翁]]から[[南画]]の画法を受けた。 [[田能村竹田]]はその著『竹田荘師友画録』で[[頼山陽]]や[[野呂介石]]と並べて菘翁の「送行図巻」を激賞した。精緻な[[山水画]]の他にも墨竹や菊・松などの題材を好んで画いている。門弟に多くの優れた文人画家が育った。 また、菘翁は[[画論]]にも長けており56歳の頃、伊勢の[[浜地庸山]]の著した中国画論『山水高趣』に題言を寄せ、[[紀春琴]]の『論画詩』にも評を加えている。 === 旅 === 旅を好み、[[長崎]]には三度赴いた。また[[飛騨高山]]の[[川上淇堂]]を訪ね、61歳の時から3年間も滞在した。 == 門人 == [[画像:Nukina Suoh sishogasohfuku.jpg|thumb|220px|菘翁筆 山水詩画双幅 天保12年(64歳)]] <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> *[[貫名海雲]] 娘婿 *[[浅井柳塘]] *[[池内陶所]] *[[吉田公均]] *[[村田香谷]] *[[日根対山|日根對山]] *[[谷口藹山]] *[[上竹潭]] *[[畑柳平]] *[[越智仙心]] </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> *[[内村鱸香]] *[[山田石叟]] *[[円山大迂]] *[[小林卓斎]] *[[山本梅荘]] *[[松田雪柯]] *[[高見照陽]] *[[富田万厚]] *[[鈴木崇倹]] *[[忍頂寺梅谷]] </div><br style="clear: left;" /> == 作品 == *「山觜図」1830年 [[堺市博物館]] *「万壑松濤図」1831年 *「渓山芳信図」1832年 [[出光美術館]] [[重要美術品]] *「山水図」1835年 *「老松図」1841年 [[滋賀県立琵琶湖文化館]] *「秋景人家図」1847年 [[頴川美術館]] *「渓山訪友図」1849年 [[田部美術館]] *「山水図」1850年 *「秋景山水自画賛」1855年 財団法人頴川美術館 *「芦汀晴秋図」1866年 *「湖山柳景図」 堺市博物館 == 関連項目 == *[[書道]] *[[日本の書道史]] *[[日本の私塾一覧]] *[[菘翁美術館]] *[[日本の篆刻家一覧]] *[[日本の書家一覧]] *[[貫名海堂]](名を肅、字は子儀、号は海堂・海叟 1885年 - 1941年)という人物の書は菘翁の筆勢と非常によく似ているため市場でよく間違われる。菘翁の一族か門弟であるとされる。[[播磨国|播磨]][[垂水区|垂水]]の出身である。 ==脚註== <references /> == 参考文献 == *[[中田勇次郎]]編著 「貫名菘翁」『日本書人伝』、[[中央公論社]]、1974年、267-292、360-364頁。 *「文人画の近代 鉄斎とその師友たち」<Tessai and His Teachers and Friends> [[京都国立近代美術館]] 1997年 *[[書論 (季刊誌)|書論]] 17号 特集「貫名菘翁と[[内藤湖南]]」 1980年11月発刊 {{DEFAULTSORT:ぬきな すうおう}} [[Category:日本の能書家]] [[Category:日本の篆刻家]] [[Category:江戸時代の儒学者]] [[Category:日本の漢詩人]] [[Category:江戸時代の文人]] [[Category:江戸時代の画家]] [[Category:阿波国の人物]] [[Category:19世紀の美術家]] [[Category:1778年生]] [[Category:1863年没]]
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