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藤原隆家
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{{基礎情報 公家 |氏名=藤原隆家 |画像= |画像サイズ= |画像説明= |時代=[[平安時代]]中期 |生誕=[[天元 (日本)|天元]]2年([[979年]]) |死没=[[寛徳]]元年[[1月1日 (旧暦)|正月1日]]([[1044年]][[2月2日]]) |改名=阿古(幼名)→隆家 |別名= |戒名= |墓所= |官位=[[正二位]]、[[中納言]] |主君= |氏族=[[藤原北家]][[九条流]] |父母=父:[[藤原道隆]]<br>母:[[高階貴子]]([[高階成忠]]の娘) |兄弟=[[藤原道頼|道頼]]、[[藤原頼親|頼親]]、[[藤原伊周|伊周]]、[[藤原定子|定子]]、'''隆家'''、[[藤原原子|原子]]、[[隆円]]、[[藤原頼子|頼子]]、[[御匣殿 (藤原道隆四女)|御匣殿]]、[[藤原周家|周家]]、[[藤原周頼|周頼]]、[[藤原好親|好親]] |妻=[[源重信]]の娘<br>[[藤原景斉]]の娘<br>[[源兼資]]の娘<br>[[藤原為光]]の娘 |子='''[[藤原良頼|良頼]]'''、[[藤原経輔|経輔]]、[[藤原季定|季定]]、[[藤原家房 (隆家流)|家房]]、[[藤原良員|良員]]、[[藤原基定|基定]] |特記事項= }} '''藤原 隆家'''(ふじわら の たかいえ)は、[[平安時代]]中期の貴族。[[藤原道隆]]の四男([[高階貴子]]を母とする兄弟では次男) == 生涯 == [[永祚 (日本)|永祚]]元年([[989年]])正月29日、11歳で元服し[[従五位]]下[[侍従]]、[[正暦]]4年([[993年]])3月10日右[[近衛府|近衛]]中将、翌5年8月28日、[[従三位]]に叙され公卿に列す。父・道隆の死に先立ち、[[長徳]]元年([[995年]])4月6日に権中納言に至る。 翌2年4月24日、[[花山天皇|花山法皇]]奉射・[[藤原詮子|東三条院]]呪詛・[[大元帥法]]を行った罪状三ヶ条を以って[[出雲国|出雲]]権守に左遷された([[内大臣]]だった同母兄[[藤原伊周|伊周]]は[[大宰権帥]]に左遷)。これを[[長徳の変]]という。 翌年4月召還され、長徳4年10月23日[[兵部卿]]に任じた後、[[長保]]4年([[1002年]])9月24日、権中納言に復した。[[寛弘]]4年([[1007年]])正月20日[[従二位]]、同9年正月27日[[按察使]]、[[長和]]3年([[1014年]])11月7日任大宰権帥、翌4年4月21日正二位と、徐々に宮廷社会で復帰していったが、官職は中納言に止まった。 [[三条天皇]]の代に眼病<ref>原因は『[[御堂関白記]]』によれば「突目」、すなわち先の尖った物による[[外傷]]のため。</ref>の治療のため、進んで[[大宰権帥]]の任命を望んでかなえられ、[[大宰府]]に下った。在任中の[[寛仁]]3年([[1019年]])4月 、当地で[[刀伊の入寇]]に応戦した。なお、権帥の任期が終わり帰京した寛仁4年に、都に疱瘡(今でいう[[天然痘]])が大流行した。刀伊([[女真]]族と考えられている)が大陸から持ち込んだものが隆家に憑いて京に及んだものと噂された。 寛仁3年12月、大宰権帥を辞して帰京(後任は[[藤原行成]])。[[治安 (元号)|治安]]3年([[1023年]])12月15日、中納言を辞退し、その代わりに次男[[藤原経輔|経輔]]の[[弁官|右中弁]]に昇任させた。[[長暦]]元年([[1037年]])8月9日[[藤原実成]]に代わって再度大宰権帥に任ぜられたが、[[長久]]3年([[1042年]])正月29日それを辞した。寛徳元年(1044年)正月1日、正二位・前中納言として死去した。享年66。 == 人物 == 天下の「さがな者」(荒くれ者)として有名であった隆家は、王権をかさに着る花山院との賭け事<ref name="oo">『[[大鏡]]』道隆伝</ref>や、姉の[[中宮]][[藤原定子|定子]]の女房[[清少納言]]との応酬<ref>『[[枕草子]]』、隆家は「三位中将」または「中納言」の官名でしばしば登場。</ref>など、『[[枕草子]]』『[[大鏡]]』『[[古今著聞集]]』にも多彩な逸話が伝えられている。姉が生んだ[[敦康親王]]の立太子を拒否した一条天皇を「人非人」と非難したり<ref name="oo"/>、権力者の叔父[[藤原道長|道長]]の嫌がらせに屈せず三条天皇[[皇后]][[藤原せい子|娍子]]の[[皇后宮職|皇后宮大夫]]を引き受けたり<ref>『小右記』長和元年4月27日条</ref>するなど、気骨のある人物として知られた。その「こころたましひ」(気概)は政敵の道長も一目置く存在であり、「長徳の変の黒幕」と衆目の一致する所であった道長は、後年、[[賀茂神社|賀茂]]詣のついでにわざわざ隆家を招いて同車させ、その弁明に努めている<ref name="oo"/>。「もし敦康親王が即位して隆家が政治を輔佐したならば、天下はよく治まるだろう」という世人の密かな期待があり、その期待に反して敦康が立太子できなかったのは、さすがの隆家も気落ちしているだろう、という世間の忖度を逆手にとって、隆家は三条天皇の[[大嘗会]]では華美な正装で煌びやかに振る舞ったという<ref name="oo"/>。 また、父・道隆や兄・伊周に対しては批判的な態度を取り続けていた[[藤原実資]]からは可愛がられ、彼の日記である『[[小右記]]』には隆家が実資に悩み事を打ち明ける記事(寛弘2年正月5日条・長和2年8月13日条・同年9月8日条)や実資が大役に任じられた隆家の息子を気遣う記事が見られる(寛仁元年9月16日条・同4年10月30日条)。特に長和2年の両記事には実資が隆家に対して眼病の治療と道長からの圧迫を避けるために「遠任之案」を勧め、それを受けた隆家が「深有鎮西之興」を抱いたことが記されている<ref>関口力『摂関時代文化史研究』(思文閣出版、2007年) ISBN 978-4-7842-1344-3 P23-26・77-79</ref>。この大宰権帥の任官に際して、「天気無動、但左府猶有遏絶者」と『小右記』長和3年5月7日条にあるように、道長に強く妨害され決定までに9ヶ月を要したが、結局同じ眼病に悩む三条天皇の隆家への同情は深く、隆家の希望は聞き届けられた。 『[[後拾遺和歌集|後拾遺]]』(2首)・『[[新古今和歌集|新古今]]』(1首)の勅撰歌人である。[[漢詩]]も文人の家系に恥じず、『[[本朝麗藻]]』に七言[[律詩]]1首を残している。 == 隆家の子孫 == 隆家の娘は長女が三条天皇の皇子[[式部卿]][[敦儀親王]]室<ref>『小右記』寛仁4年(1020年)10月23日条・治安元年(1021年)2月1日条によれば、隆家は敦儀親王を婿取ろうとして道長の「気色不快」を招き、その結果翌年に延引した。</ref>、もう一人が[[参議]][[藤原兼経]]室となっている。 隆家の長男[[藤原良頼|良頼]]は正三位権中納言に進み、その娘は参議[[源基平]]室となり[[後三条天皇]]の寵愛をうけた[[源基子]]([[実仁親王]]・[[輔仁親王]]の生母)を生んだ。良頼の4代後の子孫に、[[平清盛]]の継母として[[源頼朝]]の助命を嘆願したという[[池禅尼]]がいる。 隆家の次男[[藤原経輔|経輔]]([[1006年]]-[[1081年]])は、正二位権[[大納言]]となって水無瀬大納言と称せられた。経輔の5世孫にあたる[[従三位]][[藤原忠隆|忠隆]]の息女は[[近衛家|近衞家]]の祖である[[近衛基実|基実]]の室となって[[近衛基通|基通]]を生み、その兄弟[[藤原信頼|信頼]]は[[後白河天皇|後白河上皇]]の寵臣で[[平治の乱]]の首謀者として有名。同じく経輔の5世孫にあたる[[修理職|修理大夫]][[藤原信隆|信隆]]の息女[[藤原殖子|七条院殖子]]は[[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]生母であり、その弟[[坊門信清]]は[[内大臣]]の位にまで昇った。[[源義経]]の母の[[常盤御前]]の再婚相手で[[奥州藤原氏]]とも関係があった[[一条長成]]も経輔の5世孫である。 隆家流は女系を伝って[[皇室]]・[[摂家]]にその血を残し<ref>隆家次女(参議兼経室)の4世孫にあたる従三位[[藤原季行|季行]]の息女が[[九条兼実]]室となり[[九条良経|良経]]を生んでいるため、[[九条家]]にもその血は入った。</ref>、子孫は[[水無瀬流]]として後世、[[水無瀬家|水無瀬]]・[[七条家|七条]]・[[町尻家|町尻]]・[[桜井家|桜井]]・[[山井家|山井]]の五[[堂上家]]を出して[[明治維新]]に至る。 なお、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に[[懐良親王]]を擁した[[肥後国]]の豪族[[菊池氏]]は隆家の後裔を自称し、祖先にあたる[[藤原政則]]を隆家の子息としていた。 == 系譜 == *父:[[藤原道隆]] *母:[[高階貴子]] *妻:[[源重信]]の娘 *妻:[[藤原景斉]]の娘 **長男:[[藤原良頼]](1002-1048) *妻:[[源兼資]]の娘 **次男:[[藤原経輔]](1006-1081) **女子:[[敦儀親王]]室 **女子:[[藤原兼経]]室 *妻:[[藤原為光]]の娘 **男子:[[藤原季定]] *妻:加賀守正光の娘(姓不明) **男子:[[藤原家房 (隆家流)|藤原家房]] *妻:不明 **男子:[[藤原良員]] **男子:[[藤原基定]] **男子:行昭(1015-1062) - [[延暦寺]][[権律師]] **男子:隆明(1021-1104) - [[園城寺]]長吏、[[大僧正]] == 外部リンク == *[http://hdl.handle.net/10270/129 勝倉壽一「『大鏡』道隆伝における隆家の位相」] == 脚注 == {{reflist}} {{DEFAULTSORT:ふしわら の たかいえ}} [[Category:中関白家|たかいえ]] [[Category:平安時代中期の貴族]] [[Category:平安時代の歌人]] [[Category:日本の漢詩人]] [[Category:979年生]] [[Category:1044年没]]
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