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[[Image:Ishida Masatsugu.jpg|190px|thumb|石田正継像([[妙心寺]]寿聖院蔵、[[大阪市立美術館]][[寄託]]、[[重要文化財]](2012年指定))文禄3年([[1594年]])9月[[伯蒲慧稜]]賛 作風から[[土佐派]]の画人の作と推定される]] '''石田 正継'''(いしだ まさつぐ、生年不詳 - [[慶長]]5年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]([[1600年]][[10月24日]]))は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]。父は[[石田為広]](仲成・為厚とも。法名は前陸奥入道清心)といわれるが不明。子に[[石田正澄]]、[[石田三成|三成]]などがいる。左悟右衛門・藤右衛門・太郎右衛門。従五位下隠岐守。「正継」は三成出世後の名乗りであり、それ以前は政成・為成・晴成などを名乗っていたといわれるが、いずれもはっきりしない。 ==略歴== 出自について、[[近江国]][[坂田郡]]石田村(現:[[滋賀県]][[長浜市]]石田町)出身の[[地侍]]、または[[京極氏]]の被官とする説があり、[[和歌]]や[[文学]]に造詣が深い才人とされる。 三成が[[豊臣秀吉]]に仕えると、代官として三成を補佐する。[[文禄]]4年([[1595年]])、三成が[[佐和山城]]主に封ぜられると、正継も近江国内で3万石を領する。以後は佐和山城代として、三成留守時の庶政を掌った。[[朝鮮出兵]]では、[[楠木正虎]]とともに肥前[[名護屋城]]にあって帳簿関係を担当した。 [[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では西軍に与し、正澄と共に佐和山城を守備する。関ヶ原で西軍が敗れた後、[[小早川秀秋]]らの猛攻に遭って半日を戦うも敗退して自刃した。墓所は[[京都市]][[右京区]]の[[妙心寺]]で、当寺には正継の肖像画も所蔵されている。 ==関連項目== *[[石田氏]] {{DEFAULTSORT:いした まさつく}} [[Category:石田氏|まさつく]] [[Category:戦国武将]] [[Category:織豊政権の大名]] [[Category:近江国の人物]] [[Category:1600年没]]
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