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'''牽 招'''(けん しょう、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]時代末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]にかけての[[魏 (三国)|魏]]の武将、政治家。[[字]]は'''子経'''。[[冀州]]安平郡観津県の人。子は牽嘉・[[牽弘]]。 == 事跡 == === 曹操に仕える以前の事跡 === <!-- この記事を編集するときには、表の部分を飛ばして、その後をご覧ください。 --> {| class="wikitable" style="float:right; font-size:smaller" |- ! 姓名 | 牽招 |- ! 時代 | [[後漢]]時代 - [[三国時代 (中国)|三国時代]] |- ! 生没年 | 〔不詳〕 |- ! 字・別号 | 子経(字) |- ! 本貫・出身地等 | [[冀州]]安平郡観津県 |- ! 職官 | 督軍従事兼烏丸突騎〔袁紹〕 →冀州従事〔曹操〕→軍謀掾〔曹操〕</br> →護烏丸校尉〔曹操〕→中護軍〔曹操〕</br> →平虜校尉兼都督[[青州|青]][[徐州]]諸軍事〔曹操〕</br> →使持節護鮮卑校尉〔魏〕</br> →右[[中郎将]]兼雁門[[太守]]〔魏〕</br> |- ! 爵位・号等 | [[関内侯]]〔曹叡〕 |- ! 陣営・所属等 | [[何苗]]→[[袁紹]]→[[袁尚]]→[[曹操]]→[[曹丕]]→[[曹叡]] |- ! 家族・一族 | 子:牽嘉 [[牽弘]] |} 同県の楽隠の下で学び、楽隠が[[何苗]]の長史となると、牽招もこれに随従した。[[中平]]6年([[189年]])、[[洛陽]]の動乱の中で何苗と楽隠が殺されたため、他の門下生と共に楽隠の棺を守って帰郷しようとした。その途中で賊に襲われ、他の門下生は逃亡したものの、牽招は棺に取りすがって見逃してくれと泣いて頼んだところ、賊にその勇気を認められ、見逃された。 その後、冀州[[牧]][[袁紹]]の下で督軍従事を拝命し、[[烏桓]]突騎を兼任した。袁紹死後、その子の[[袁尚]]に仕えた。[[建安 (漢)|建安]]9年([[204年]])、[[中山]]郡へ逃れた袁尚のために、袁尚の従兄弟で[[并州]][[刺史]]の[[高幹]]に救援を求めた。しかし高幹は、[[曹操]]にも袁尚にも与いしようとせず、牽招を殺害しようと図った。牽招は逃走したが退路を遮られていたため、袁尚の下に戻ることができず、そのまま曹操に降って冀州従事として仕えた。 === 曹操の下での事跡 === その後まもなく、曹操に叛逆した[[袁譚]]を支援する峭王(烏桓の有力者蘇僕)を説き伏せるため、牽招は曹操の命で柳城に派遣された。しかし柳城において、[[遼東]]の[[公孫康]]配下であった[[韓忠 (遼東)|韓忠]]と遭遇してしまう。韓忠が公孫康の正統性を主張し、曹操を批判したところ、牽招は怒ってその場でこれを斬り捨てようとした。しかしこの場は、峭王が謝罪したために牽招は剣を収め、峭王は曹操に服する事になった。韓忠は峭王に、[[単于]]の印綬を授けようとしていたという。 建安10年([[205年]])の袁譚滅亡後、牽招は軍謀掾に任命され、さらに烏桓征伐に随行して、柳城で護烏桓校尉に任命された。建安12年([[207年]])、公孫康が袁尚・[[袁煕]]の首級を送ってくると、牽招は首級の下で祭祀を行った。しかし曹操は牽招を罰する事もなく、寧ろその行為を評価して茂才([[秀才 (科挙)|秀才]])とした。建安20年([[215年]])の[[漢中]]征伐に随従し、その平定後は曹操の命により中護軍として事務にあたった。それが終わると[[鄴]]に戻り、平虜校尉兼[[都督]][[青州|青]][[徐州]]諸軍事に昇進し、東莱の賊を破り、その大首領を斬った。 === 魏王朝での事跡 === [[黄初]]元年([[220年]])、[[曹丕|文帝]]の即位と共に、使持節護[[鮮卑]][[校尉]]となり昌平に駐屯する。牽招は寛大な統治により、漢族・周辺民族を問わず帰順してきた者を受け入れ、鮮卑族の大人の素利・弥加ら部落十数万家や、[[歩度根]]・[[泄帰泥]]ら部落3万家を招き寄せ起伏させた。その後、右[[中郎将]]兼雁門[[太守]]となり、優れた行政手腕で農地開発と秩序の安定に貢献した一方、雲中郡で泄帰泥らを指揮して、[[軻比能]]を撃破した。 黄初7年([[226年]])、[[曹叡|明帝]]が即位すると[[関内侯]]の爵位を賜った。[[太和 (魏)|太和]]2年([[228年]])、護烏桓校尉の[[田豫]]が馬邑城で軻比能に包囲されると、牽招は急遽救援に向かい、田豫を救出し軻比能を撃破した。その後、[[蜀漢]]の[[諸葛亮]]と連携する軻比能を完全に討伐するため、戦略・対策を進めていたが途中で死去した。 長子に後を継いだ牽嘉、次子に蜀討伐に参加し振威護軍となった牽弘がいる。また、牽嘉の子で牽招の孫にあたる牽秀は、[[西晋|晋]]代に平北将軍にまで昇った。 小説『[[三国志演義]]』には登場しない。 == 参考文献 == *<span style="font-size:90%;">『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書26牽招伝</span> [[Category:三国志の登場人物|けん しよう]]
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