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'''文 鴦'''(ぶん おう、[[238年]] - [[291年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]から[[西晋]]にかけての軍人。[[魏 (三国)|魏]]・[[呉 (三国)|呉]]・晋に仕えた。[[字]]は'''次騫'''<ref>『[http://www.guoxue123.com/zhibu/0201/03tpyl/0274.htm 太平御覧(中国語)]』 巻二百七十五 兵部六 良将上は干宝の『晋紀』を引いて「文淑,字次騫,小名鴦,有武力籌策。揚休、胡烈為虜所害,武帝西憂,遣淑出征,所向摧靡,秦凉遂平,名震天下。為東夷校尉,姿器膂力,万人之雄。」。</ref>。祖父は文稷。父は[[文欽]]。弟は[[文虎]]。「鴦」は幼名で、本名は文俶(「淑」という記載もある)という。並外れた武勇の持ち主だった。 ==生涯== ===毌丘倹の乱と諸葛誕の乱=== 父と[[カン丘倹|毌丘倹]]が反乱を起こした時、父に従って[[司馬師]]の軍勢と戦った。 司馬師は汝陽に駐屯して、[[トウ艾|鄧艾]]を楽嘉に派遣した。鄧艾は魏軍が弱いと見せかけて文欽を誘い出し、司馬師も大軍を隠密に楽嘉へ移動させた。文鴦は18歳ではあったが、武勇は全軍随一であり、父親に「まだ勝敗は決していません。城に登って、鼓を打ち、大音声をあげれば、魏軍を撃ち破れます。」と言った。文鴦は敵を攻め三度騒いだが、父が応じなかったため、退いて父とともに戦線を東に下げた<ref>『魏氏春秋』によれば、軍を文欽と文鴦の2軍に分けて夜襲を行なった。文鴦が先に到着し大声で「大将軍」と呼ばわると、魏軍は恐れ乱れた。しかし文欽が遅れたため、呼応できずに撤退した。</ref>。 司馬師は文欽が逃げたことを知ると、精兵でもって追撃を開始させた。しかし諸将は「文欽は古強者だし、子の鴦は若く気鋭です。軍を退いて城に篭っても、未だ損害を被っていないなら、彼らが敗走することはありません。」と言った。しかし司馬師は「一度鼓すれば士気が生まれ、二度目は衰え、三度目で尽きる。文鴦が三度も鼓したのに、文欽は応じなかった。その勢いは既に屈している。敗走しないなら何を待っているのだ」と、追撃を緩めなかった。文欽が更に逃げようとした時、文鴦は「司馬師に先んずることができず、我が軍の勢いを折ってしまった。このまま退き下がることはできません」と言い、十数騎で魏軍に斬り込み敵陣を破り、向かうところ全てを薙ぎ払い、引き揚げていった。しかし、さらに魏軍の追撃を受け戦局が不利になったため、父と共に呉へ亡命した。 この頃、司馬師は自らの持病である悪性の目の瘤を手術していた。術後、あまり経過しない内に帰陣しており、そこへ文鴦の奇襲を受け無理をしたため、片方の目玉が飛び出してしまったという。閏月、病状が悪化したため[[司馬昭]]を呼び出し軍を委ね、[[許昌]]にて死去した。 [[諸葛誕]]が司馬昭に対して反乱を起こすと、 呉の将軍として諸葛誕の救援に向かった。しかし、父と諸葛誕が作戦をめぐって対立し、父が諸葛誕に殺されると、自分も殺されることを恐れて司馬昭に降伏した。この時、将軍に任じられている(『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』諸葛誕伝)。 ===晋の勇将=== [[265年]]に魏が滅んで晋が成立すると、武帝([[司馬炎]])の時代に平虜護軍となった。また、[[涼州]]で反乱を起こした[[羌]]族の討伐に向かい、大勝利を収めた。 [[277年]]、司馬駿の統率の下、文鴦は禿髪樹機能を破り、降伏させた。後に東夷校尉・仮節となり赴任前に武帝に謁見した。しかし、武帝は彼に面会するや否や嫌悪感を覚え、別件に託け免職にした(『三国志』諸葛誕伝・『晋書』司馬駿伝)。 [[291年]]、[[恵帝 (西晋)|恵帝]]の時代に賈皇后([[賈充]]の娘で[[賈南風]])が[[クーデター]]を起こし、実権を握っていた[[楊駿]]一党を殺害した。クーデタ―に参加した東安公の司馬繇は諸葛誕の外孫に当り、母は諸葛誕の娘<ref>諸葛誕の反乱後も、他家に嫁いでいたことを理由に連座を免れていた。</ref>であった。司馬繇は、文鴦が母の一族(つまり諸葛誕の一族)に復讐することを恐れ、文鴦を殺さんと謀り彼が叛逆したと誣告した。それは全くの[[冤罪]]だったが、結果的に文鴦の三族は皆殺しとなった(『晋書』司馬繇伝)。 ==三国志演義の文鴦== 小説『[[三国志演義]]』にも登場し、毌丘倹の反乱の際には反乱軍の将として、[[趙雲]]<ref>嘉靖本・黄正甫本では[[張飛]]。</ref>に匹敵する勇将として描かれている。因みに「横山三国志」には登場しない。 == 脚註 == <references /> {{DEFAULTSORT:ふん おう}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:魏晋南北朝時代の人物]] [[Category:呉の人物]] [[Category:238年生]] [[Category:291年没]]
文鴦
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